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7.頬に触れる




7.頬に触れる
 
 電車の暖房で火照った頬に、冷たい窓ガラスが気持良かった。
 吐く息が冷えて水滴になり、亜矢の視界を白くする。
「窓なんて、誰が触ったかわかんないじゃん。汚いよ」
 夕子の声が、彼女の耳元でわんわんと反響した。
 こういう呆としている時は、外の世界がやけに騒がしく感じる。
「うん。だけど、冷たいから」
 眠いし。
 塾帰りの身体は妙な疲労感に包まれていて、電車の揺れが眠りを誘う。
 そんな時、安定の悪い背もたれより、窓ガラスの固い震動に頭を任せているのが、亜矢にはちょうどよかった。
 だけどそんな彼女の考えを、夕子が理解してくれることはない。
 同じように亜矢にも、この友達の行動が分からない。
「電車って、気持悪い」
 彼女の向い側で、夕子は居心地が悪そうに顔を顰めていた。
 本当は、きっと座席にも座りたくないのだろう。
 夕子はいつも白い手袋をしている。
 授業中も、食事の時も、もちろん学校の往復路でも。
 家で寝る時以外はいつも一緒にいるような亜矢でも、彼女が素手でいる所をほとんど見たことがなかった。
 夕子が手袋を外すのは、新しい手袋に着替える時だけだ。
 そんな一瞬に人の視界を掠める夕子の手首は、赤ん坊の肌みたいに白くて綺麗だ。
「電車の中で眠らないと、やってらんないんだもん。塾、きついし」
「こんなトコでどっかに触るなんて、ありえないと思うんだけどなあ」
 夕子のスカートと座席シートの間には、タオルが敷いてある。
 背もたれにだって触れないように、ピンと背筋を伸ばして、どこかにお出かけするみたいな姿勢で、この友達は電車に乗るのだ。
 毎日毎日そうやって、夕子が疲れないわけない。
 でも、それを「変だ」とは言う事は出来なかった。
 それくらい、亜矢だって弁えている。
 自分が「どっかおかしい」事なんて、みんな分かっているのだ。
 今さら人に「止めた方がいい」とは、誰も言われたくないはず。
 言われた分だけ、また深く「おかしさ」が潜っていってしまうに違いないから。
「帰ったら、ご飯だね」
「うん、うちも。だけど、お菓子食べ過ぎたから入らないかも」
「あのチョコ美味しかったね。また買って、今度は他の子にも分けたげようよ」
 学校が終わって、塾に行って、電車で帰って、夕御飯食べて、寝て、また学校に行って。
 このループに、いつか終わりがあるんだろうか。
 同じ所を回り続けているようで、少しずつ乱れていく回転。
 ゴールに辿り着くまで車輪を壊さないよう、亜矢は夕子達と喋る。
 お互いに油を差し合っているような関係だ。
 だけど、どちらかが途中で止まってしまっても、きっと助けてあげることなんて出来ない。
 触れ合うほどに近くにいる夕子でさえ、亜矢とは違う軋み音を立てているのだ。
 崩れていく自分すら止められない亜矢に、人を救う言葉なんて見つけられるはずもなかった。
 だから、ただ寄り添って互い互いに油を差す。
 
 何か引っ掛けたのか、電車がぐらりと揺れた。
 吊り革に掴まった中年達の姿が振れ、亜矢は凭れていた窓ガラスに強く頭をぶつけた。
「いったー…」
 半ば眠りかけていたのに、衝撃でまた無理矢理現実に呼び戻される。
 瞼を持ち上げると、夕子も顔を顰めて鞄を広げていた。
「どうしたの?」
「今ので手をついちゃった。手袋替えなきゃ」
「そっか」
 捲られた布の端から、真っ白い夕子の肌が覗いた。
 友達の綺麗な手首を見る度に亜矢のお腹は、きゅうと痛くなる。
 それを誤魔化そうと、彼女は腕の時計を強く捻った。
 ベルトの下にある引っ掻き傷が抉れる感触。
 そこからじんわりと広がっていく鈍い痛みが、今日も快い。





テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学


【2006/01/27】 | お題 |

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