小咄未満。全てフィクションです
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城壁の街



 
 
‡ 城壁の街 ‡


 触れあった身体が動く気配で、アヤは目を覚ました。
 明け方の寒気は、温もりが離れていく気配へ敏感にさせる。
「…もう、行くの?」
「もうすぐ奥様がお呼びになる時間だ」
 寂しい声を出しても、アヤに男を引き止める力はなかった。
 いくら愛しくても、彼は人の物だ。
「今度は、いつ、来られる?」
「分からない。次に奥様が違う男を呼んだ時だな。俺を待つのが嫌なら、他の奴を見つけろ」
「…」
 男が笑んだ唇の間から、白い歯が覗く。
 無情な事を、彼は酷く優しい口調で言う。
 それに反駁することが出来ず、アヤは黙り込んだ。
 彼女に、他の男など目に入らない。
 異国の血が混じった恋人は、他の男達よりずっと背が高い。
 力も強いし、目端が利く。
 そして、女に優しい。
 一度こんな男に恋をしてしまったら、もう他なんて屑石のような物だった。
 だから、心では彼以外どうでもいいと思うのだ。
 けれど寂しさは否定できなかった。
 彼はアヤとずっと一緒にいてくれる事は出来ない。
「…そうするか?心を決めたら、言ってくれよ。言付けでもいいから。じゃなきゃ、俺は間違って此処に来てしまう。お前が他の奴と一緒に過ごす姿を見なきゃならないのは、嫌だ」
「そんなこと、しないよ。私には、あんたしかいないから」
「だけど、俺は奥様の物だ」
「分かってるけど。分かってるけど、心は私のものだろ?」
「当たり前だ」
 大きな手のひらで撫でられ、口付けをされると、自分は間違っていないと確信できた。
 アヤには、この恋人しかいない。
 そう思うと、何か暖かな物が身体を見たしていく。
 だが、それも天幕を捲って男が出て行くまでの事だった。
 一人になると、また寂しさが襲ってくる。
 薄い掛け布の端から冷気が忍び込んで、アヤを凍えさせる。
 朝だと言うのに、心は疲れ切っていた。
 もう少しでいいから、甘い夢に浸っていたかったのに。
 
 アヤの主人は、王様の宮殿で働く雑役係の長だ。
 收入もよく、屋敷には多くの奴隷がいた。
 アヤも六つの時に、ここに買われてきた。
 それからずっとこの屋敷で働いている。
 父母もまた、三軒向こうの屋敷で奴隷として働かされていた。
 遠い土地で祖父と父が戦の捕虜として捕らえられてから、アヤの一族はずっと奴隷だ。
 そうでない生活なんて、考えられない。
 時折会う父親は、自由だった時代を懐かしむ話をするが、アヤにはぴんとこなかった。
 父が生まれ、アヤも本来そこで生まれるはずだった土地には、湖があったのだと言う。
 そして緑が茂っていたらしい。
「こんな砂の吹く、石の街ではなかった」
 痩せ細った手指を組んで、めっきりと小さくなった声で、父は遠くばかり見ている。
 彼は弱い人なのだ。
 奴隷の生活には向かない人だ、と母は夫の事を語る。
 母はアヤと同じように生まれついての奴隷だから、父の話はあまり実感に欠けるだろう。
 だが彼女は、アヤのように突き離さず、父のそういう所を愛しんでいた。
 それが、夫婦というものなのかもしれない。
 アヤだって恋人が語る話なら、どんな物をも愛しいと思ってしまう。
 彼のほんの些細な日常でさえ、それを話してもらう相手が自分だと言う事が嬉しい。
 それはいつか彼と夫婦になって、長い時を過ごした後も変わらない確信があった。
 アヤはずっと、彼の事が好きだ。
 だが、この恋が不安から解き放たれる事は無い。
 彼女の恋人は、主人の妻に飼われる奴隷の一人だ。
 それも、夫人から一等寵を受ける男だった。
 嫉妬深い彼女に、彼とアヤの関係が露呈したら、大変な事になるだろう。
 だから、決して他言しないというのが、二人の約束だった。
 
 誰も知らない恋で、どうやって夫婦になどなれるのか。
 相談する相手も持てず、一人で悩むしかない心は、いつも孤独だ。
 時折、恋人が天幕に忍んできてくれる夜だけ、その寂しさを忘れられた。
 けれど温もりを得れば、明くる日からはまた一層の苦しみが待っている。
 厨房で働く彼女の耳には、中庭からの声がよく届く。
 女主人は気に入りのその場所で、よく愛人達とふざけていた。
 整った顔立ちと、しなやかな長身を持つ若者達。
 彼女の好みか、どの男も似通った雰囲気だったが、アヤは後姿だけで恋人を見分けられる。
「奥様も、好きねえ。良い男ばっかり集めて、わたしらには全然貸してくんないんだから」
 アヤの隣で、厨房を仕切る女奴隷が呆れたような口調で言う。
 他の女達も笑いながらそれに頷いたが、アヤは素直に相槌が打てなかった。
 それが、彼女の恋を否定する言葉に聞こえたからだ。
「でも最近は、あのエハルって言ったっけ?あの若い男にばっかり夢中じゃない。他のなら、こっそり味見してもばれないかもよ」
「駄目駄目。もし手を出したのがバレたら、きっと命ないわよ」
「あんな良い暮らしして、奴隷の男まであたしらから取り上げる事ないじゃないのねえ」
 こうやって噂話に話を咲かせるくらいしか、アヤ達の気晴らしはない。
 けれど、そのお喋りすらも今の彼女には苦痛だった。
 中庭から「エハル。お前に、一番に私にキスをする権利を上げるわ」と、彼女の恋人を呼ばう女主人の声が響いてくる。
 クスクスと笑いさざめく女達の中で、アヤは一人、顔を強張らせていた。
 どんな顔で、彼はその命令に応えているのだろう。
 
 
 
 前に訪れてから、ちょうど月が一巡り。
 アヤがそれだけ一人寝を囲った後に、彼女の天幕をまた恋人が訪れた。
 既に夜も更け、アヤが夢にまどろみ始めた頃合。
 やんわりと抱きしめられる感触が、彼女を眠りから呼び戻した。
 目を開くと、待っていたのは夢よりも甘い夢。
「来てくれたんだね」
「…起こしてすまない。疲れているなら、帰るが」
「馬鹿」
 厚い布の下に招き入れた男の身体と、時を惜しむように触れ合う。
 夢は明け方には覚めるもの。
 いくら惜しんでも、その腕の中に留める事はできない。
 
 
 
 女奴隷が父の知れない子を生むのは、それほど珍しい事でもない。
 膨らみを見せ始めたアヤの腹に、最初は疑問を投げかけていた仲間達も、口を噤む彼女にやがて何も聞かなくなった。
 言えぬ事情を推察したのだろう。
 主人の子なら、主人の子と言えば良い。
 他の奴隷の子なら、所帯を持つのも悪くない。
 既に妻がいる男の子なら、ただ折々の世話だけをさせる事もあった。
 だが仲の良い厨房の女達にも打ち明けられない相手となったら、この屋敷の中では限られた。
「まさか、あんた…」
 顔を顰めて、それ以上を言わない同僚達を尻目に、アヤはだんまりを決め込んだ。
 今さら言い訳もなかったし、内実は彼女たちが考えている通りだ。
 夫人の愛人達の誰かと言って、相手の名前が知れれば、更に混乱する事は目に見えていた。
 エハルは女主人が最も気に入っている男だ。
 これ以上の面倒は避けたく、他の女達も深く関わりたくないだろう。
 けれど、落とし穴は思わぬ所にあった。

 主人の下に訪れた友人という男が、厨房の女奴隷を一人望んだのだ。
 この家の料理が美味だと感じたらしい。
 多くの厨房女を抱える主人にとって、一人や二人は惜しくない。
 どれでも好きな者を連れて行くがいいと、厨房にやってきた彼らの前に、アヤ達は一列に並べられた。
 普段は顔を見ることもない主人や夫人の後ろに、恋人の姿を見つけ、アヤの心は躍る。
 だが同時に、自分の身体に気付かれるかもしれないという恐れもあった。
 自由に会えない彼に、アヤはその話を打ち明ける機会を持てないでいた。
 エハルは彼女の妊娠を知って、何と言うだろう。
 彼に、何かを望んでもいいのだろうか。
 じいと見つめる彼女の視線の先で、動かない男の表情は冷たいほど整って見えた。
「お前たち、顔をあげなさい」
 のっそりとした主人の声に従いながら、客人に連れて行かれるかもしれないという考えは、アヤの中にほとんどなかった。
 こういう時に選ばれるのは、見栄えのいい女。
 恐らく十五歳のイラだろうと、皆が目星をつけていた。
 イラは滑らかな黒い肌に、濡れた黒曜石を埋めたような瞳が美しい少女だ。
 厨房では一番の器量良しで通っていたが、それを鼻に掛けて人を見下したような態度に、評判はあまり良くない。
 その美貌が仇になるわけだ。
 この客は随分と遠方からの人で、旅は砂漠越えらしい。
 大の男でさえも苦しむという砂漠に連れて行かれるというので、嫌われ者のイラには良い薬だと皆が口を揃えた。
 若い娘は、立ち並ぶ女達の中で一人身を縮め、半ば震えている。
 案の定客の男はイラに目をつけたらしく、彼女の前で立ち止まりしげしげ眺めていた。
「アハメドさん、この娘でもいいのかい」
「どれでも好きな女を選びなさいよ」
「いや、随分可愛らしい子だからね。あなたのお気に入りもあるかと思って」
「奴隷なんかに、私は手を出しませんよ。汚い」
「おやおや」
 客人の揶揄するような視線を向けられて、夫人が憤慨したように鼻を鳴らす。
「この子たちは、私と一緒に柔らかい布団で寝起きして、水浴びも欠かしませんのよ。汚いはずありませんでしょ」
「いやね。お前の男達の事を言ったんじゃないよ」
 怒る妻を宥めている主人を横目に見ながら、アヤは恋人の肌を思い出した。
 いつも滑らかで、他の男達のように垢の臭いがしない。
 しかもアヤでは手を触れる事もできない香油を、肌に塗っていた。
 それもこれも、夫人の寵愛の賜物だ。
 立ち並ぶ美しい男達は、そういう恵まれた生活を送っているのだ。
「大体、あなただって、この前卑しい踊り子を家に…」
「はいはい。君、選ぶなら早くしてくれませんか。藪から蛇ですよ、全く」
 苦笑する主人の客は、恰幅のいい紳士で、品の良い声をしている。
 アヤはそれほどイラが嫌いではなかったから、彼女のためにもいい主になりそうな男で良かった。
「じゃあ、お前にしようかね。可愛い娘」
「わ、わたし…」
 切羽詰ったようなイラの声に、隣の女が軽く笑うのを、アヤは腕で突付いて諌める。
 だが、すぐにそんな事をしなければ良かったと深く後悔させられた。
「わたしより、そこの人がいいと思います」
 青褪めたイラが、彼女を指差したのだ。
 客人が妙な顔をして、アヤを振り返った。
「この娘かい?どうしてかな。少し太り気味だし」
「あの。私より、ずっと料理が上手いし…それに、それに」
「ほう、料理が上手いのかい」
「そうなんです!それに、妊娠してるから…」

「イラ!」

 思わず悲鳴を漏らし、睨み付けても、焦る少女は口を止めてくれない。
 飛び出そうとするアヤを、周りの女達が押さえつけた。
「駄目だよ、アヤ。ご主人様の前だ」
 そんな事は彼女も分かっていたが、この場所にはエハルもいるのだ。
 他の人間から、こんな形で彼に知らされたくなかった。
「だから、子供が生まれたら、お得です」
「ほう、それは…」
 興味を示した客へ人を売りつけようとする女を前に、アヤは為す術もなかった。
 身籠った女奴隷は二人分の価値がある。 
 それを盾に、イラは嫌な役回りから逃れようと言うのだ。
「ということだけど、アハメドさん。子のいる娘を連れてっていいのかい」
「奴隷なんて、勝手に増えるからね。気に入ったなら構いませんよ」
「料理が上手いって、話だから」
 今や完全にイラから移ってきた客の視線に、アヤは身を固くした。
 上から下まで眺められ、男に品定めされる。
「健康そうだしね。この娘にしようかな」
 決定的な言葉を下される前に、何か言わないといけない。
 そうしなければ連れて行かれる。二度とエハルに会えなくなる。
「でも、この子供の父親が…!」
 無我夢中で口走ったアヤが視線で求めたのは、女主人の後ろに立つ恋人の姿。
 助けて欲しかった。
 何か一言でも。
 こちらに向けられた端正な顔に焦燥の色を見つけて、アヤの心はそこに縋り付いた。
 今は人に知らせる事が叶わなくても、いつか夫婦になろうと約束してあった。
 この場で知られてしまったら大変な事になるのは分かっていたけれど、それでも離れ離れになってしまうよりましではないか。
「子の父親と離れたくないのかい?それは、仕方ないねえ」
「ええ…」

「あら、お待ちになって」
 客人の方は、意外にあっさりと彼女から退いてくれそうだった。
 だが、高い声がそれを止める。
「こんな女、連れて行って下さったほうがよろしいわ。ねえ、お前たち」
 綺麗に手入れされた女主人の肌は、年を感じさせない。
 中年になっても、その黒檀の滑らかさを失っていなかった。
 その中心で、唇に差された紅が鮮やかな形に孤を描いていた。
 杏仁型の眼が、怖ろしいほどの光を湛えてアヤを睨み据えている。
「ねえ、お前たち?」
 彼女に呼びかけられているのは、その背後の若者達全てだった。
 特定の誰かだったわけではない。
「もちろんですよ、奥様」
 それなのに、エハルが、一番最初にそれに応じた。
 アヤが愛した低い声に、焦りを滲ませて。
 咄嗟に出た言葉だという印象が、強く残る。
 
 そしてエハルに続いて、他の男達も彼女に追従を述べ始めた。
 女主人が、満足そうに微笑む。
 その瞳はまた温厚そうに細められていった。
「と言う事ですの。その奴隷を連れて下さって、構いませんわ」
 何か悟ったのか、アヤに向けて、新しい主人が労わるように笑った。
 
 
 
 
 辛いだろうからと、主はアヤの悪阻がおさまるまで出立を伸ばしてくれた。
 奴隷にそんな気遣いをしてくれる主人なんて、滅多にいない。
 新しい主は、最初の印象どおり、優しい人だった。
 彼の家は砂漠の中に点在する、オアシスの一つにあるらしい。
「そろそろ行こうかね。それほど長い旅じゃない。あまり不安に思う物じゃないよ」
 出発に際しても、主人は優しかった。
 見送りと別れを告げる時間も与えてくれたのだ。
 白い城壁に開かれた門の所まで、父親が彼女を見送りに来てくれた。
 そして、厨房でも親しかった二三人の女達。
 
 父は、アヤが羨ましいと言った。
 彼は砂漠の向こうへ帰りたいのだ。
「でも、私が行くのはオアシスだよ」
「わしが住んでいたのも、大きなオアシスの辺だったよ」
 では、父の代わりにアヤは帰るのだ。
 そう言うと、年老いた父は嬉しそうとも、悲しそうともつかない不思議な表情をした。
 そして、仕事で来れなかった母親の分も愛を、と言って額に口付けをくれた。
 
 元の仲間達は、あれからの顛末を話してくれた。
 エハルは夫人の寵を失ったらしい。
 新しく買われてきた背の高い少年に、彼女は夢中になっている。
「とうとうあの男も飽きられちゃったね」
 不幸の噂は面白いらしく、相変わらずクスクスと女達は笑う。
 けれど、エハルの運命はその少年の登場のせいだけではないだろう。
「馬鹿な人だから」
 その言葉に、愛しさが滲まぬようにアヤは気をつけなければならなかった。
 二人でいる時には囁かれる睦言に、よく「馬鹿ね」と返していたから。
 
 あの時、真っ先に応えるような馬鹿な真似をしたから。
 どうせ酷い男なら、もっと賢く振舞えば良かったのに。
 あれで、アヤの相手が誰なのか、女主人は勘付いてしまったのだろう。
 
 ずるい男だったのだと思う。
 愚かな男だったのだと思う。
 臆病な男だったのだと思う。

 それでも、あの愚かなずるさを今もって憎みきれないのは、離れてしまったからだろうか。
 もう、二度と会うこともないから、愛しさを忘れられないのだろうか。
 きっとあの人は、アヤを恨んでいるだろうに。
 
「出立するよ」

 掛けられた言葉に応じて、アヤは父や友人に暇を告げた。
 互いの幸せを祈って、一人一人と抱き合う。
 最後に振り返った城壁は、今までのアヤの人生全てを包んで、砂に汚れた白を晒していた。
 それはここに置き去りにされて、やがてアヤの中で遠い陽炎になるのだろう。
 
 
 夢が覚めて、砂漠に朝陽が輝く。
 初めてみる大きさの太陽にアヤが眼を丸くすると、他の供達が笑った。
 この砂の地平線の向こうで、生まれてくる子供と共に、ずっとこの太陽を戴いて生きるのだ。
 それはやけに心躍らせる未来で、甘いだけの夢よりも優しいものになってくれるに違いないと信じられた。



-◇--◇--◇--◇--◇--◇--◇--◇--◇--◇--◇-

「エジプト神話研究所」さんの「前世占い」。
こちら、大好きなんですが、今日の結果は以下でした。

「あなたの前世は…
クレオパトラの時代に生きた、白き城壁の町メンフィス付近出身の小さな村で平和に暮らす女性です。
その人生は 決して幸福とは呼べなかったが、力強く、やがて新たな世界を求め、はるか国境の向こうへと旅立ったようです。」

これを踏まえて、遊んでみました
ビミョーにお題から外れている上に、エジプトがどんなだかサッパリ分かりません。
時代考証完全無視。
  

  
  


テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学


【2006/01/29】 | 小咄 |

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