小咄未満。全てフィクションです
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絵師の恋人



 恋をしたいのなら、あなたはその男に会えばいい。
 暗い色の髪。秀でた額。手を入れずとも整った眉に、暗い色の睫毛。
 重い睫毛が瞬く度、その下から海の色をした瞳があなたを覗くだろう。
 それが、あなたを搦めとる。
 そして見蕩れるあなたに、彼はきっとこう言うのだ。
「貴女への恋を、この紙に写し留めてもよろしいですか」
 肉の薄い唇を、優しい形に歪ませて。
 彼はあなたに微笑みかける。
 かつて、私にそうしたように。
 そしてあなたは恋に落ちるだろう。
 かつて、私がそうしたように。
 
 
 私が恋した男は、希代の絵師。
 あなたが恋する男は、類い稀なる眼差しを持つ。
 
 
 彼との出会いは、忘れもしない、十四の齢を迎えた祝いの席での事。
 遅くに生まれた私を溺愛する父親が、その年の宴にも大勢の客を招いていた。
 大商人として権勢を誇る私の父の元には、様々な人間が集まる。
 彼も、そんな中の一人だった。
 そうは言っても、父に直接紹介されたわけではない。
 当時、私はその毎年恒例の祝賀に、ほとほと嫌気が差していた。
 父に伴われ招待客に礼を述べて回る途上で、必ず掛けられる世辞に我慢がならなかったのだ。
 その頃の私は、人々の「目を見張るほど美しくお育ちだ」という言葉が真実でない事を、ようやく悟り始めていた。
 私はそれほど美しい娘ではなかった。
 だからと言って醜かったわけでもないのだが、そのように客観的な評価を下せるのも、時を経た今となったからだ。
 ちょうど思春期に差しかかったばかりの小娘には「人が言うほどに美しくない」という時点で、自分の容姿が許容する事のできない物になり得る。
 十四歳の私は、「醜い自分」を褒める真のない言葉と、それを媒介にして父に阿る人々の心無さ、そしてそれを締りのない笑顔で疑わずに受け入れる父親に、猛然と腹を立てていた。
 褒め言葉の裏で、人々が自分を指して嘲笑う声を聞くようでやるせない。
 そして、何より口惜しかったのが自分の容姿だ。
 その日は朝から使用人に手伝わせ、衣装から髪型、化粧まで全て念入りに整えていた。
 それでも、肉のついた丸い頬は隠しようもない。ぽってりした唇は紅を塗っても、誤魔化せない。
 必死に繕っていた虚勢も、客の元へと連れ廻される内に薄皮のごとく剥がれ落ち、最後には耐えかねなくなった私は、父の手を振り払って逃げ出した。
 宴の主役が、愚かな真似をしたものだ。
 思い返してみると、顔から火を吹くほどに恥ずかしい。
 けれど、その当時は必死で、あれ以上大人しく人の嘘を聞き続けたら死んでしまうと強く思い込んだ。
 父の呼び止める声を振り切り、人々の中に飛び込むと、驚くほど目立ずに私はそこに溶け込めた。
 客人のほとんどが私に興味などなかったのだ。
 卓上に所狭しと並べられた豪勢な料理、上等の酒。大人同士にしか通じぬ、洒脱な会話。
 彼らの目的はそんなところで、宴の口実に過ぎないちっぽけな小娘がそこに割り入る隙はない。
 挨拶を済ませてしまい、彼らの視界から私は忘れられていた。
 けれど、偽りの関心よりも、そちらの方がまだ心地よい。
 お喋りに興じる客人達の中を縫って会場の端へと逃れ、私はようやく息が付けた。

 そして、彼の姿に気がついたのだ。
 
 彼も、私の近くの壁際で佇んでいた。
 それは、一人で立っていたと言う意味ではない。
 人の輪に混じり受け答えていたのに、その印象を表す言葉を、今もって「佇む」としか思い浮かばない。
 人に囲まれていても、一人でいるような、溶け込まないその空気。
 その不可思議な現象が、私の目を捕らえた。
 それを一目惚れと人は言うだろうか。
 だが、違う。その時点で、私はまだ恋に落ちてはいなかった。
 彼は確かに人目を引く容姿をしていたが、姿形は所詮憧れの対象にしかなり得ない。
 私の心までもを奪ったのは、その視線。
 持ち主と同じように、決して何物にも紛らわされる事のない、鋭い眼差し。
 あの重い睫が瞬いて、振り返った彼が私に目を止めた瞬間から、私の恋は始まったのだ。
 世界から音が消える一瞬を、あの時、私は体験した。

 歓談の輪から何気なく彼が振り返り、私を見て、驚いたように二三度大きく眼を瞬かせた。
 優しい顔貌の男なのに、視線だけが鋭く人を突き通す。
 そこに込められていたのは、私の呼吸を止め、鼓動を止め、音を奪う力だった。
 絡んだ視線から、今までと違う世界が生まれ、膨張していく感覚。
 それは次いで彼が微笑む事で、今度は収縮を始め、全てが私の心臓に収まる。
 鼓動が激しく、耳鳴りと錯覚しそうだった。
 あの時間を、どれほど時が経っても、私は今この瞬間のことのように思い出せる。
 あれから恋は幾度もしたが、あんな体験は二度となかった。
 ゆっくりと歩み寄ってくる彼の姿は、残像を残しながら私の前で止まり、薄い唇が優しい形に曲げられる。
 ごく当たり前の膝を折る礼が、彼の動作であれば、この上なく優雅に見えた。

「美しい人。貴女への恋を、私の拙い絵に留めてもよろしいですか」
 
 背筋をぞくりと撫で上げられる。私だけを見つめる、あの逸らされない眼。
 彼が何を言ったとしても、あの時の私に拒む事はできなかっただろう。
 私は言葉もなく首を縦に振り、彼が微笑を深くするのに、ただ目を奪われた。
 もう一度念を押しておくが、彼の造作に惹かれたのではない。
 美しい男なら他にもいるし、彼はそこまで際立っていたわけではないのだ。
 だが人を惹き付けて止まない要素を、彼の存在そのものが内包していた。
 それが彼の天才だったのだろうが、初対面の私にそれを知る由はない。
 陥ったばかりの恋に夢中だった私は、周囲で大きく騒がれている事にすら気付かなかった。

「貴女のお名前を伺ってもいいですか?僕の名は、アズ・イット」
 
 彼が私の名を知らなかったのも、無理はない。
 いずれ父から紹介されるはずだったのに、逃げ出したのは私だ。
 そしてまた、私も彼を知らなかった。
 若くして不世出の天才絵師と呼ばれる男の噂に、幼い私はまだ興味を抱いていなかったのだ。
 だから男の名乗りに大した意味も感じることもなく、問いへ私は無邪気に応じた。
 おそらくは、頬を染めて。
 
「エルバと申します」
 
 
 もう一度、あの日に戻れるなら。

 










 父は当然、彼の申し出を喜んで受け入れた。
 評判の絵師が「是非に」と言うのを、断る人間の方が少ないだろう。
「さすがは、私のエルバだ。あの男が肖像画を描くのは、今回が初めてだそうだよ」
 元々私に甘い父親が、こんな話を喜ばないわけがない。
 美術に関する素養が薄い父でも、絵師アズ・イットの高名くらいは知っていたのだ。
 教皇の覚えも目出度い彼は、当時建築中の聖堂に壁画を描く候補としても名が挙がっていた。
 まだ二十代の半ばにも満たない若者が、そんな大役に推挙される事自体、異例だ。
 そんな人物が、己の娘で初の肖像画を描きたいと言う。
 派手な事が好きだった父は酷く浮かれ、方々でその話を拡めたようだ。
 あの宴の席でもアズの行動には皆が注目しており、豪商の娘と言う以外に取り立てた物もなかったはずの私は、瞬く間に時の人となった。
 今でも記憶の良い人なら、あの騒ぎを覚えているかもしれない。
 家に訪れる友人、客人は引きも切らず、その全員が私がアズと出会った経緯を聞きたがった。
 それに嬉々として、見てもいない話を語る父。
 当の私はと言えば、その横で口を開くこともなく、ぼんやりとアズの事ばかり考えていた。
 人に彼への感情を語りきれるほど、私は大胆でも饒舌でもなく、また冷静でもなかった。
 十四歳の狭い世界は、一人の男を受け入れるだけで精一杯で、他の物事など全て視界から消えていたのだ。
 明けても暮れても、私の心はあの絵師を中心に回っていた。
 
 アズは三日に一度くらいの頻度で、私の家を訪れた。
 大抵は朝の、まだ陽が高くなる前。
 それから半日近く、私を伴って部屋に篭り、ただ一心に筆を動かしていた。
 彼はその間ほとんど口を開かないから、私は椅子に座って、絵を描く彼を見守るだけ。
 だがあの半年間に、それを退屈だと感じた事は一度もない。
 あの穏やかで、幸福な時間。
 南向きの窓から差し込む光が、床に窓枠を描き出し、彼の顔に陰を作る。
 夜には黒と映る髪の色は、陽光の下で深い鳶色であった事を知った。
 彼の手は忙しく動いたかと思うと、止まり、難しい表情を作った顔に当てられたりもする。
 そして、あの重たげな睫毛をふいと持ち上げて、私に視線を向けるのだ。
 最初は彼に見つめられるだけで指先を震わせていた私だったが、次第に慣れ、向けられた眼差しに微笑を返せるまでにはなった。
 それでも、あの深海の眼にひたりと焦点を合わせられると、一瞬、呼吸を忘れそうにはなる。
 ぞくぞくと背筋を這い登る熱が、その感覚の正体をまだ知らなかった私を酷く混乱させた。
 あんな初心な小娘に視線だけで見知らぬ官能を教え込むなんて、振り返ってみれば何と罪作りな男だったのだろう。
 だが彼はその他の場面においては、非常に紳士的だった。
 画布を間に挟まぬ時は、会話や行動において常に私を敬い、一歩引いた慇懃さを保つ。
 あの暗い熱を帯びた視線も、そういう時に与えられる事はない。
 それどころか、ほとんど目を合わせようともしてくれなかった。
 もしや疎まれているのかと邪推したくなるくらい、二人だけの部屋から一歩出ると、彼は私に距離を置いた。
「あの…先生。せっかくだから、午後のお茶だけでも御一緒していかれませんか」
「申し訳ありませんが、これから省の方へ足を運ぶ予定なのです」
 決死の思いで誘っても、いつも仕事か約束を口実にかわされ、向き合うことを拒まれる。
 馬車に乗り込んで行く絵師の背中に、私は身を焦がしつつも、無言で見送るしかなかった。
 絵を描く時以外で、何らかの優しさを彼が示してくれていたなら、私はあの恋にもっと勇敢であれたのかもしれない。
 だが拒まれる事を実感として知りすぎた私は、それ以上の攻勢を彼に仕掛けられなかった。
 幼く、絵師の視線を得るだけで満足しなければならないと、自分に言い聞かせていた恋。
 だから私達の間で言葉が交わされた事は、その実、ほとんどないのだ。
 私は唯一拒まれる事のない描画の時間に執着し、私達はほとんどの時間を画布を挟んで過ごした。
 春から夏、そして秋にかけて、硝子越しの日差しの下で、私達を絡ませたのは、ただ互いの眼差しだけだった。
 彼と手を触れ合った記憶すらないが、同時に、彼は私の全てに触れ尽くした。
 画布越しに溶けあう視線に、距離は存在しないのだから。
 絵の製作が進むにつれ、彼が画布から顔を上げる回数は多くなり、時間は長くなり、眼差しは濃密になっていった。
 彼は、私を眺める時に、まず大きく目を開く。
 そして一二度軽く瞬き、今度はそれを細めて、私をじっくりと味わう。
 目線が、爪先から髪の一本までを優しく愛撫し、私はそれにうっとりと身を任せた。
 あの明るい部屋で、差し込む陽光よりも眩しく、彼は私を見つめた。
 
 
 肖像画の完成は、その年の冬になる予定だった。
 父が、彼にその時期を目処にしてくれと頼んだらしい。
 もし聖堂の壁画家に選ばれれば、彼もそろそろ忙しくなるはずだったから、契約に是非はない。
 けれど絵が完成すると言う事は、彼との繋がりの消失を意味しており、永遠に描きあがらなければいいと、私は半ば本気で願った。
 仕上がるまで誰にも見せないとアズが言うので、完成の度合いを知る術はなかったが、特に滞っているという報告もない。
 秋の終わりに差しかかる頃には、私は迫りくる別れに、次第に力を失っていった。
 私が落ち込む理由を、恐らく父は理解していた。
 だからあの時期に、あんな話を持ち出したのだ。
「此処のところ、エルバは元気がないからね。良い話を持ってきてあげたよ」
 いつもであればこの言葉の後に、観劇や旅行の誘いがあるのだが、この時は違った。
「ウヴァーレンの藩王が、お前との縁組を望んでくれてね」
 早速受けさせて頂いた、と嬉々として父は語る。
 突然そんな話を持ち出されても、私は咄嗟に理解できなかった。
「前々から出ていた話だったけれど、今回は正式なお申し入れだ。来年の春には、三国一の花嫁としてエルバを送り出してあげよう。私は少し寂しくなるが」
 以前からの話だというのも、初耳だった。
 その日まで、私は結婚という二文字を我が物として考えた事がほとんどなかったのだ。
 十五、十六で嫁ぐのが慣例の世だが、その年代の子供にとって一年はまだ長い。
 しかも、私はそれまで誰からも申し込みを受けた事がないと思っていた。
 まさに晴天の霹靂だ。
「い、嫌よ。お父様、そんなの、嫌に決まってるじゃない。私、まだどこにも行きたくない」
 勿論この時、私の頭にあったのはアズ・イットの姿だ。
「私、好きな人がいるもの」
 それまでの父は、私が望む事を何でも叶えてくれた。
 唯一思い通りにならなかったのが、美しくなりたいという願いで、だからこそ私はあれ程口惜しさを感じていたのだ。
 物理的な希望、つまり金で買えるものなら、彼は必ず私の思うようにさせてくれた。
 今ならば、分かる。
 私は、父にとっての「お人形」だったのだ。
 小さくて可愛い、自分の持ち物。
「大丈夫。エルバは藩王の事も、すぐ好きになるよ」
 誰も、人形の心なんて考えない。
 それは自分の思い通りにしていいものだから、考える必要なんてない。
 だからこの時に私が泣いても喚いても動じる事のなかった父の考えが、今なら理解できるのだ。
 あの時代の私は、父の手で動かされるおままごとの人形のようなものだった。
 藩王というのは、教皇領の一つを任される領主の別名で、教皇選挙での票を握る。
 商売を手掛ける父のような人間にとっては、是非にも繋ぎが欲しい類の相手だ。
 道楽で愛しんだ娘の落ち着き先として、これ以上はなかっただろう。
 
 皮肉な話だった。
 ウヴァーレンの藩王が私に興味を抱いたのは、アズが私に目を止めたからだと言うのだ。
 あの絵師は、画布と共に、私の運命をも塗り変えた。
 
 明くる日の描画の時間、私は泣き腫らした目でアズ・イットの前に現れた。
 彼に心配して欲しかったのだと思う。
 同情して、優しくあやして欲しかった。
 私の結婚に憤り、自分と共に逃げてくれと言ってくれないかと願った。
 けれど、あの絵師はそのどれもしなかった。
「ごめんなさい。今日は、こんな顔だから描いてもらえないです」
「いいえ。もうお顔は終わっておりますから、座っていて下さるだけでいいですよ」
 そう言った時に、珍しく優しい微笑を見せたが、それだけ。
 あとは何も聞かず、また筆を握ってしまった。
 またいつもの視線を向けられ、眼差しに篭った熱以外は、表情もなく淡々と仕事をこなしているようだった。
 私はその日、彼に見つめられながら泣いたが、それでも彼は動かなかった。
 ただ、私を見守っていただけ。

 そうやって、彼はいつも私を見ていた。
 眩しく、目を細めて。
 
 
 
 絵が完成したという事を、私は父から告げられた。
 そこに、描いた絵師の姿はなかった。
「絵が出来たよ」
 そうして見せられた肖像画の中で、目を見張る程に美しい女が微笑んでいた。
 波打つ豊かな赤毛を頭上に結い上げ、こちらを見詰める深緑の双眸。
 曇りのない肌には、熟れた果実のような唇が実り、柔らかい頬を笑ませている。
 白いドレスに包まれた華奢な肢体は、触れなば折れん風情だった。
 描かれた幻だというのに、思わず圧倒されてしまうほどの、美貌。
「…これは、私じゃないわ」
 アズは何処だと尋ねる前に、私はそう言わずにいられなかった。
「こんなの、私じゃない。私の肖像画なのに」
 私は赤毛に、緑の眼を持っていたが、この絵の女のような美しさはなかった。
 確かにどこか私の面影を残してはいるが、まるきりの別人だと言っても通じる。
 肉のついた身体を、どう描いたらこうほっそりなると言うのか。
「馬鹿だね。間違いなく、あの絵師が描いたお前の肖像画だよ」
 父は、否定する私を一笑に付した。
 彼にとって重大なのは、私の衝撃などではなかったのだ。
「お前の先に、この絵が藩王の元へ輿入れするのだよ」
 評判の絵師に頼んだおかげで美しく仕上がって良かったと、父はしきりに満足していた。
「これなら藩王も、ますますお前を望まれるだろうね」
「私を見たら、落胆されるわ」
「そんなことはいいんだよ。私が、あの絵師に誰よりも美しく描けと言ったんだから」
 私の葛藤も、私の未来も、もはや父にとっては「そんなこと」だ。
 こんな美しい女の絵を前に「これはお前そっくりだ」と言われるのも白々しい話だったが、私を常に肯定するべき親の口から、あっさり否定されたくもなかった。
 何故こんな絵を描いたのか、問い詰めたくても絵師はいない。
「お父様、アズ・イットはどうしたの?」
「ああ、彼は壁画の件が本決まりになってね。忙しいだろうから、私が絵だけ受け取ってきたのだよ。これほどの物を描く彼なら、素晴らしい壁画を見せてくれるだろうね」
 アズが他にどんな絵を描くか知りもしないくせに、父はしたり顔だった。
 私はその理由を、もう少し深く考えるべきだった。
 なぜ父のような権力者が、名が売れているとは言え一介の絵師の下へ足など運んだのか。
 だが私は、まだ世間を知らず、頭も回らない十四歳の小娘に過ぎなかった。
「お前の肖像画を描く報酬にね、彼を壁画の絵師として推挙する約束だったのだよ」
 その父の言葉に、愚かにも私は、全ての理由を求めてしまった。
 
 ずっと疑問に思っていたことがあった。
 なぜ、アズのような絵師が、私みたいなさして美しくもない娘に興味を持ったのか。
 なぜ、私などを描きたいと言ったのか。
 なぜ、私と言葉を交わすことをあれほど厭ったのか。
 そして、なぜ此処に姿を見せないのか。
 私の恋が、出会いから全て仕組まれた物だったのなら、何一つ謎は残らない。
 壁画を描きたかった若い男。
 それを可能にする力を持った父。
 そして、父が娘を売りつけたいと機会を窺っていた権力者。
 そんな男達の手で、くるくると回される小さな独楽が私だった。
 
 
 
 偽りの肖像画に続いて三月の後、私は未来の夫の元へ向かう旅路についた。
 ウヴァーレンは私の生家がある皇都から、馬車で月一巡りほどの時間が掛かる。
 その途上にある街に、アズ・イットが壁画を描く聖堂が建築されていた。
 当然、彼はその夜に私の宿へ顔を見せたが、私は面会を固く拒んだ。
 出立時に宿の主が挨拶がてら、明け方まで絵師が待っていたと教えたが、それが何ほどの事か。
「独楽にも心臓があるのだと、彼は知らなかったのよ」
 私がそう言うと、主は首を傾げていた。
 その日、私は馬車を一つ占領し、使用人を追い出しても狭い空間で、一人窓の外を食い入るように眺めた。
 空に向かって築かれていく聖堂の尖塔が、もう残像にも映らなくなるまで。
 もう出尽くしていたはずの涙がまた滲んで、恋した男の面影を、消えていく塔の姿に重ねようとしていた。
 
 
 
 
 
 それきり、私はアズ・イットと顔を合わせていない。
 
 噂だけは豊富で、現在の彼を思い描くのは簡単だが、実際の姿に目にするつもりはなかった。
 アズは例の壁画を見事に描き上げ、更に世間の評価を高めた。
 教皇の気に入りとして教会絡みが多いらしいが、一般からの注文も受け、常に仕事は引きも切らないらしい。
 また、彼の恋愛遍歴も人の注目を集めるところだった。
 絵のモデルになった女性は、貴族の令嬢や夫人から娼婦まで、全て彼との恋の噂が流れる。
 彼は肖像画は描かないから、群像の絵画であるのに、全員と恋をしていると言うのだ。
 幾らなんでもそれが全て真だとは思わないが、女達の気持ちならば分かる。
 あのひたりと注がれる官能の眼差しに、酔わずにいられる女は少ないはずだ。
 彼の目蓋は重たく動く。そこから覗く深海の青が、人の心を惑わせる。
 それは、相手の身の内までも見通す力を秘めているから。
 あの視線が記憶に蘇るだけで、私の奥はふつふつと熱を持つ。
 
 少し、私の話もしておこう。
 ウヴァーレンに嫁いだ私は、予想通り夫を落胆させた。
 肖像画の女を期待していた彼に、丸い頬の幼い娘は裏切りに近いものがあっただろう。
 彼は妻として一二度私を抱いた後は、すぐに元より可愛がっていた女達の元へ帰っていった。
 私も、それを残念だとは思えなかった。
 アズ・イットへの恋に破れたばかりだった私に、夫が強いてくる行為は苦痛以外の何物でもない。
 一人静かに本を読んだり、城の庭を散策したりしている方が楽で、夫が私を顧みない事に、むしろ助けられたくらいだ。
 だが、それから二三年も過ぎた頃からだろうか、私を取り巻く環境が変化を見せ始めた。
 夫の宮廷に仕える男達が、頻繁に私の元を訪れるようになったのだ。
 散歩の途中に庭で挨拶を交わす程度の仲だったのに、一体どうした事かと当初は訝しんだが、どうやら彼らは私に恋をしていたらしい。
 お喋り好きの女官が、私にそう耳打ちしてくれた。
 夫に捨て置かれた哀れな妃というのは、彼らにとって恋がしやすい相手だったに違いない。
 しばらくして例の女官の手引きで、私はその内の一人とごく親しい仲になった。
 鳶色の髪と、青い目をした男は、酷く私の気に入ったのだ。
 その瞳の色彩が少々明るすぎる事が残念だったが、その分を情熱で補うだけの甲斐性を持ち合わせた青年だった。
 賛美の言葉を惜しまない男と言うのは、女にとって気分の良い物だ。
 その男が、私の部屋で肖像画を見て、言った言葉がある。
 アズが描いた絵は、夫の気分を害するという理由で、私の部屋に追いやられていた。
「素晴らしい絵ですね。誰の手によるものですか?まるで、貴女がもう一人、あそこで息づいているかのようだ」
「まさか。私は、あんなに美しくないわ」
「いいえ、本当に、そっくりです」
 男は、私の赤い髪に口づけて、そう繰り返した。
 いつの間にか、時が私の痛んで縮れた赤毛を、豊かに波打つと表現される髪に変化させていた。
「あなたは、誰よりも綺麗だ」
 鳶色の髪の男が眩しそうに目を細める姿に、私は既視感を覚え、顔を背けた。
 その先に、大きな鏡。
 硝子の向こうから、深緑の瞳が印象的な女が、私を見詰め返している。
 あれは、誰だったか。
 かつてアズ・イットが父へ阿るために描いた偽りの写し絵に、同じ顔の女を見た事がなかったか。
 あれは、もう三年も前。
 あの頃の私は、こんな顔をしていなかった。
 今、私を讃えるこの男と同じ鳶色の髪、だがずっと深い瞳をしたあの青年の前で、頬を染めていた娘は、こんなに美しい女ではなかった。

 そういえば、アズはいつも眩しく目を細めて、飽きる事など決して無いように私を見た。
 あの瞳に映っていた私は、こんな姿をしていたのだろうか。
 
 壁に掛けられた肖像画の中で、かつて私に傷を穿った女が微笑む。
 この絵がなければ、私はあれ程の裏切りを、絵師に感じる事はなかった。
 似てもいない絵を描く事で、彼は「お前など見てもいなかった」と私に教えたのだ。
 身の底までも突き通す視線で、私の心を灼きながら。
 あの絵は、今の私にそっくりなようで、違う。
 私は、あんな目をしていない。
 幸せと恋に酔った蕩けるような眼差しで、額縁の中から女が私を見下ろしていた。
 発作的に果実に使う刃物を掴み、肖像画の女を切り裂こうとした私を、鳶色の髪の男が止める。
 私がアズ・イットのために流した最後の涙は、彼に良く似た男の胸元に消えた。
 
 
 それから私は幾人か愛人を取り替えたが、いずれも鳶色の髪か、深い青の眼を持っている。
 けれど私が絵師本人に会うことは、決してない。
 それは何故かと、あなたは問うだろうか。
 それとも、もう予想はついているだろうか。
 浅はかな女の心だ。
 それほど深く考えずとも、分かってしまうに違いない。
 私は怖いのだ。
 彼が、私を愛していたのだという幻想を失う事が、怖い。
 一度は無くした甘美なそれを、あの日に鏡の前で取り戻した。
 それを彼の口から否定され、再び失ってしまうなんて耐えられない。
 だから、私はもう二度と、絵師に会えない。
 
 あの重い睫毛が瞬く様を、もう一度、見たい。
 あんな小品の肖像画を描くのに、一体、半年も掛かるだろうか。
 ただでさえ、絵を描くのが速いと言われる絵師アズ・イットが、そんなにも時間を必要としただろうか。
 彼は、まだ途中だといって、絵を一度も見せてくれなかった。
 あの秋の終わりから冬に掛けて、彼は筆を動かさずに、私を見てばかりいた。
 絵は、あの時、本当にまだ完成していなかったのだろうか。

 今となっては、どれも全て私の希望に満ちた推測に過ぎない。
 それを確かめる術を、私はもう永遠に求めるつもりがないのだから。
 
 
 
 恋をしたいなら、あなたはあの男に会えばいい。
 きっと彼は、あの深海の眼差しであなたを恋に誘う。
 いつか私にそうしたように。
 あなたの絵を描かせてくれと、言うだろう。
 いつか私にそうしたように。
 そして、あなたは頷いてしまうに違いない。
 彼は、そんなあなたに薄い唇を優しく笑ませる。
 彼はかつて手掛けた一枚以外、もう肖像画は描かないらしい。
 けれど違う形で、あなたの最も美しい姿を画布の上に留めてくれるはずだ。

 私が恋した男は、希代の絵師。
 女の誰よりも美しい姿を見い出す、類い稀なる眼差しを持つ。、








テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学


【2006/02/01】 | 小咄 |

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