小咄未満。全てフィクションです
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【目次】(原稿用紙100枚)
序.始まり
一.敗国
二.黒衣の王
三.鳥籠ふたつ
四.美しい女
五.赤子
六.怖れ
七.
八.
九.花束
十.裏切り
十一.優しい嘘
終.女王




   序.始まり

「わたしが好き?」
 寝台の上に横たわる人を、私は問い詰める。圧し掛かるように顔を近づけると、私の吐息が彼の産毛を揺らした。もう動く事もままならない彼に、逃げる場所なんてない。
「わたしが好き?好きと言ったら、助けてあげるわ。あなたの一番大切な、あの子」
 彼が一番大切にしていたもの。今、その命運を握るのは私だった。
「分かっているでしょ。あなたがいなくなった後、わたしが一言口にすれば、あの子どうなる?」
 彼の眉が険しく寄せられた理由は、きっと病の苦しみではない。自分の意に沿わない事を嫌う人だから、私の言動が忌々しいのだろう。こんなこと、彼の予定にはなかったはず。病も、道具に過ぎなかった女に下らない言葉を強要される事も、この状況も、全て。
 けれど、いくら矜持に拘りたくても、今の彼に他の選択肢はない。
「たった一言。好きと言うだけで、いいの。さあ、あの子を助けたいでしょ」
 彼が私を憎んでも、いい。
 それでも愛し続けると決めたのは、他でもない私自身だ。だけどこれが最後なら、一言だけ。好きだ愛おしいと、一度だけでいいから、彼の口より聞きたかった。
 嘘でいい。
 その響きがあれば、きっと私はもう迷わない。今度こそ、私はこの生を誇りに思える。
「さあ、言って」
 彼にとって、私はどれだけ愚かな女だろう。売られ、利用され、ただ流されて生きる人間。それでも運命に抗う術を持たず、自身を虐げた男に愛を請う。それも、偽りの愛を。
 彼に理解される事を、期待してはいけない。細められた黒い目に浮かぶ光を受けて、私は口元を引き締めた。その視線が哀れみであれ、蔑みであれ、彼に情けない表情は見せない。
「言うの?言わないの?」
「…お前を、愛しているよ」
 掠れた声は、諦めの響きを宿していた。
 私が望んだ嘘。
 私が彼を亡くしても、生き続けるための嘘。
「それでいいわ。ご苦労さま」
 声の震えに、気付かれないよう祈った。
 病に倦んでも深さを失わない眼差しは、愛しい物を向く時、途方もなく優しくなる。けれどその優しさは、もう私には注がれない。
 それでも、彼が愛しかった。
 嘘にまみれてしまった真実だけれど、それが本当だ。けれど彼の理解を期待する事は止めておこう。甘えは私を弱くする。
 だから、私は彼に背を向けた。溢れ出す涙を、彼だけには見られたくない。
 嗚咽を堪えるのは、あと十歩。この部屋を出るまで、押し寄せる悲しみに耐えてみせる。
 足元が揺れないように、一歩一歩。
 
 もう二度と彼には会わない。
 彼に残された時間は、僅か。もう一度顔を見れば、きっと私は無様に彼へ取りすがる。
 私は強くあると、決めた。私は、私が背負うと決めた物のため、強くあらねばならない。
 彼が最後の記憶に、そんな強い私を刻んで逝って欲しかった。
「さよなら」
 閉めた扉の向こうに弱かった自分を置いて、私は歩き出す。
 彼がくれた、優しい嘘を抱いて。
 
 だから、私は知らない。
 私が去った後の部屋に響いた「許してくれ」という声も。彼の目から落ちた涙も。
 何が本当の優しい嘘だったか、私は永遠に知らなくていい。
 
 ここから、私の物語が始まる。






   一.敗国
 
 誰か行かなければいけないのなら、誰を選ぶべきかは明白だった。この場所に一番必要のない人間は、私だ。
「わたしが行きます」
「だが、そなた……」
 名乗り出た私に、母は珍しく戸惑った声を出したが止める素振りはない。彼女もそれが一番良いと考えていたのだろう。
「幼い妹達を、そのような場所にやるわけにはいきません。わたしが参るのが良いでしょう」
 居並ぶ廷臣達の顔に安堵の表情が浮かぶのが癪だった。分かっていた事とはいえ、悔しさくらいは感じる。
 賢い中姫。美貌の末姫。
 世継の大姫は、一番最初に生まれただけ。私には常にそんな陰口がつきまとう。
「そのような場所と仰られるのは、大変に心外ですね。我が王は素晴らしい方ですし、一国の正妃としてお迎えするのですよ」
「使者殿のご気分を害したのなら、悪い事をしました。我が妹達はまだ嫁ぐには幼いと申したかっただけです」
「確かに、貴女様が我が王に一番釣り合いの取れた御年齢でいらっしゃるようですね。少々相応しすぎるくらいの御様子で」
 戦勝国の使者とは、居丈高な物らしい。面と向かって「嫁き遅れ」と罵られるのは、いくら私でも初めてだ。
 心はやけに冷めていたけれど、顔が熱くなるのは止められなかった。なかなか犠牲的な心持ちで名乗り出たのに、ここでも私は要らないと言われる。
 美しくもなく、秀でた物を持つでもない私を必要とする人間は誰もいなかった。むしろ私を邪魔に思う者の方が世には多いだろう。
 私の父は戦の功で女王に一時の寵を頂いただけの男だ。妹達の父親に比べて身分は取るにも足らず、しかも既にこの世を去った。
 それでも長女であるというだけで、私は女王の世継だ。
「中の姫君は、大変聡明な方だとか。我が王は学問を好まれます」
 黒い肌の使者が蛇のような眼光で、上の妹を射すくめる。見た目はちょっとした優男なのに、視線の嫌らしさは爬虫類のようだ。
 私の横で、妹が居心地悪そうに身を捩る。それを良い気味だと感じてしまう私は、何とも底意地が悪かった。
 この妹はいつだって、私を差し置いて人の注目を集める。こんな場面においても、私の自己犠牲をただの物笑いに変えてしまう。
「使者殿よ。我の大姫を愚弄するおつもりか。然り我らは敗国だが、貴殿は和平を約しに参ったと申された。それとも、我にその首を捧げる事をお望みかのう」
 底冷えがする母の声に、広間が一瞬で静まり返る。薄笑いを浮かべていた使者もさすがに居住いを正した。
 これが女王の威厳。美しくて、強い母。
 彼女に振り向いて欲しくて、私は無駄な努力をどれほど重ねただろう。上の妹に負けまいと書を漁り、下の妹の愛らしさを得ようと食を削っては、様々な美容法を試した。けれど私が何をしても、誰からも愛されるのは末姫で、教授達が手放しで賞賛するのは中姫だ。
 忙しい母に「これからも精進せよ」と声を掛けられるのは、いつも妹達だけだった。目を止めるほどの働きも価値もない私は、いつだって忘れ去られたまま。
「貴殿らの御国もであろうが、我もまた戦に疲れた。だからこそ、この平和を取り結ぶ婚姻に賛同したのじゃ。だがその下らぬ舌が我の怒りを望むなら、我が民は最後の一兵まで全力で戦い散ろうぞ」
 憧れの母が、私の為に怒っている。
「大変な無礼を申し上げました、美しき女王よ。ですが私もまた、姫君に我が王を侮辱されたと感じたのでございます。どうかそちらを汲んでいただきたく」
「ならば、貴殿も若い娘の心を斟酌する度量を持たれよ。責を転じるでない」
「……申し訳ありません。ですが」
「黙りゃ」
 不遜な使者をぴしりと黙らせて、母が私を向き直った。その白皙の顔にこんな優しい微笑を見出すのは、初めてかもしれない。
「大姫、そなたはどうしたい?そなたの良いようにおし」
「あちらが宜しいならば、わたしが参りましょう。わたしなどの身が国に役立てるなら幸いです」
「そなたは我の誇りじゃ。優れた世継であったよ」
 舞台を降りる娘へ、手向けの褒め言葉。私がどれほどそれを望んでいたか、母は知っているのだろうか。
「手放すのは辛いが、そなたならば立派に平和の架け橋を務めてくれるであろう」
 母の言葉に、臣達が笑顔で頷く。その光景が私の胸を熱くした。今の彼らにとって、私は賞賛すべき掛け替えのない人間だ。
「使者殿、そういうわけだ。我が一の姫を差し上げよう。よもや、否やはないの?」
「ありがたく承りました」
 負かした国の女王に押さえ込まれて、使者は忌々しげな表情だ。だが彼の苦い視線も、私の高揚した気分に水は差せない。
「決まりじゃ。では国を挙げての慶事を執り行おう。大姫が望んでの嫁入り、これ以上の目出度き事はないぞ」
 沈鬱だった広間が一転、明るい騒ぎに包まれた。掛けられる祝いの言葉、浴びせられる注目、そして感謝。
 その中で、私を横から突付く手がある。中姫、つまり上の妹が聡い茶の瞳で私を咎めていた。
「馬鹿よ、姉様! お母様は全て分かった上でやってらっしゃるのよ。どうして自ら名乗り出るなんて真似をなさったの」
「何を言うのよ。お前は私の婚礼を祝ってくれないの?」
「姉様って、つくづく愚かな方ね!」
 馬鹿はお前。そう罵ってやりたかった。人目がなかったら、そして私が私ではなかったなら、きっとそう言ってやっていた。
 けれど私は出来た姫。優しい人。
 辛い事は辛いと口にしてしまった瞬間に耐え切れない物になってしまうから、私は従容と運命を甘受する。
「馬鹿ね。わたしは幸せよ。皆の役に立てて、お前達を守る事が出来て」
 こうならざるを得なかった私をお前に理解出来るかと問う声を飲み込んで、私は妹に微笑みかけた。






   二.黒衣の王
 
 椅子に掛けた黒衣の男が細縁の眼鏡を通して、冷たく私を値踏みする。その鋭さに視線が泳ぐのを堪え、彼を見つめ返した。
 高い頬骨、痩けた頬。長く真っ直ぐな黒髪を額の真ん中で分け、後ろで束ねている。穏やかな表情は優しそうだが、目付きがその印象を裏切っていた。
「実に、醜いな」
 一瞬何を言われたか飲み込めず、言葉が浸透してきた瞬間に喉がひくつく。
「手を触れる気にもならん。クルフ、なぜこんな女を連れてきた」
「金都タレンハナの世継の姫です。これ以上ない血統の方かと考えました」
「つまらん言い訳だな。あの女王には、他にも娘がいただろうが」
 使者だった男が畏まって頭を下げた。
「申し訳ありません。噂に違わず、したたかな女王でいらして」
「食われたか。お前にしては珍しい」
 この低く喉を鳴らして笑う男が、私の夫になる人だ。私を「醜い」と言う男。淡い恋の期待を打ち砕かれて、そんなものを抱いていた自分の愚かしさが可笑しくなった。
「何を笑う? お前は余が何と言ったか、理解しているのか」
「分かっております。御手に触れるには、わたしが醜すぎると仰いました」
「それで笑うか。薄気味の悪い女だ」
 不可解と言われるなら、それもいい。こんな男に理解されたいとも思わなかった。なんて嫌な男だろう。
「王のご気分を害するつもりはありませんでした。どうかお許しください」
「全く、いちいち可愛げがないな」
 挫けそうになる心を叱咤して、歯を食いしばる。ここで泣こうと喚こうと、私のためにならなかった。この場所に私の味方はいない。私は敗戦国から買われてきた女なのだ。
 祖国を出る時は華々しかった。六頭立ての馬車と支度行列、それら全てと引き離されたのは国境線での事だ。必要なのは花嫁だけだと突っ撥ねられては、立場の弱い私達は強く出られない。
 供もない粗末な黒塗りの馬車に押し込められ、せめてもと頼み込んで小さな衣装箱一つだけ携行を許された。それきり祖国の人間を見ていない。あまり接した事もなかった黒い肌の人々ばかりに囲まれて二日経ち、心細さの限界など疾うに通り越していた。
 それに、孤立無援の環境は別段今に始まった事ではない。妹達の父親が有力貴族なおかげで、私は祖国の宮廷でも厄介者扱いだった。逆境は手馴れたもの。自分にそう言い聞かせ、私は微笑を顔に張り付かせる。
「こういう時、女とは泣くものだろう。少しは素直な態度を取らんと、人に好かれんぞ」
「泣いた方が宜しいのなら、そう致します」
 笑みの形に歪めた唇の奥で、ぎりりと噛み締めた粘膜から血の味が広がった。何を言われても堪えた様子なんて見せるものか。
「もうよい。本当に興醒めな女だ」
 そんな私に興味を失ったようで彼はふいと視線を外し、件の使者に声を掛けた。
「クルフ、お前にこの女の世話は任せる。部屋はシアーの側にしておけ」
「承りました」
「ああ。それから、女」
 女と呼ばれて返事をするのは癪だったが、この狭い部屋に他に同性の姿はない。使者以外は、数人の表情に乏しい男達だけの慎しすぎる謁見だった。とても正妃を迎え入れるための顔合わせとは思えない。
「何でしょうか」
「お前、名は何と言う」
「……アナイスと申します」
 妻になるはずの女について、彼は名も知らなかったらしい。どれほど興味がなかったと言うのだろう。
「呼びにくい名だな。これからはアナと呼ぶ。よいな」
 否と答える事を許さない口調だった。それならば尋ねなければいいのに。
「はい」
「今夜はお前の下へ行く。万事整えておけ」
 嫁いだ以上は覚悟していた事だったが、身体が堅くなった。こんな男に触れられるのに、私は耐えられるだろうか。
 私の返事など待たず、彼は立ち上がって部屋を出ていった。クルフと呼ばれた使者を残し、他の男達もその後に続く。
 この国で最も尊い色は黒なのだと聞いた。黒一色の装いは国王だけに許される。髪も目も、肌の色までも黒く、更には纏う衣装までも同じ色。私の夫になる男は、まるで暗闇の切絵のようだ。軽く傾いだ猫背が扉の向こうへ消える。あの黒い背中を愛するなんて、到底できそうもなかった。






   三.鳥籠ふたつ
 
「この隣に、女を一人住まわせてある」
「はい」
「余の子供を身籠っている。名はシアー。身分のない踊り子だ」
「はい」
「生まれた子は、お前が産んだ事にする。お前は今夜孕んだ事にして、これから十月の間は部屋から出るな」
「……はい」
「顔色も変えないか。やはり可愛げのない」
 
 それが今から三月前に、初めてこの部屋を訪れた夫と交わした会話だ。それきり彼とは顔も合わせていない。
 婚姻の契約は文書としてだけ保管されているが、私は名ばかりの妻だ。夫は私に指も触れていない。最初の晩に部屋を訪れた彼は、緊張する私に勝手な事を言うだけ言って出ていった。
 そこから始まった監禁生活ももう長い。元からそんなに動き回る方でもないが、数ヶ月も一室に閉じ籠る退屈さにはいい加減辟易していた。
 祖国から持ってきた書物も内容を覚えるほど読み返し、もう何の時間つぶしにもならない。せめて女官との会話でも楽しみたいが、忙しい彼女達はなかなか相手をしてくれなかった。
「最近は、あなたが来るのが待ち遠しいくらい。そろそろ精神的に限界ね」
「アナイス様は随分と私をお嫌いですね」
「初対面があれで、好きになれるわけがないでしょ」
 世話係に任命された件の使者は、目下のところ私の貴重な話し相手だ。どうやら夫の乳兄弟らしい彼は、側近中の側近として他にも仕事を抱えているらしく週に一二度顔を出す程度だが、時が経つにつれ気心も知れてきていた。意外に話しやすい男だ。
「嫌いな相手と話すのを楽しんでる自分が嫌。それもこれも他に暇つぶしがないからよ」
「お暇ですか」
「人を閉じ込めておいて、何を今更。話し相手くらい手配して欲しいわ。駄目ならせめて、新しい本を持ってきて」
 私が監禁されている事を知るのは夫とクルフ、そしてこの奥宮に勤める数人の女官だけだ。子供の件は極秘裏に進められているようだった。
「これ以上の人員は増やせませんが、本の方は承りました。書庫から見繕いましょう」
「シアーという人とは話せないの?」
 私の他にもう一人籠の鳥になっている女がいる。「私の子供」を産む人だ。私は「妊娠していない」事を人に知られてはならないが、彼女は「妊娠している」姿を人に見せられない。子供を産むのは、あくまでも私らしい。
「彼女も同じように過ごしているのなら、退屈しているはずよ。秘密も漏れないし、格好の人のように思うのだけれど」
「シアーはあなたの御相手になれるような女性ではありませんよ」
「そんな事、会ってみないと分からないでしょ。心配しなくても、別に彼女に危害を加えたりしないわ」
 夫の寵を得ているからといって恨めるほど、私は彼に執着していない。二度しか会っていない男に、どうやってそんなものを抱くのか。
「そんな心配はしていませんよ。あなたは冷静で賢い方だ。彼女に会う事をお望みなら王に伺っておきますが、おそらくお許し下さるでしょう」
「お願い」
 クルフは苦笑しつつ頷いた。片側の頬に浮かぶ浅い笑窪のせいか、この男は愛嬌のある表情がやけに上手い。しかも始終笑顔なので、つい気を緩めたくなるところがあった。こういう人間が一番信用ならないのかもしれない。
「ところで、美味しいお茶ですね。どちらのものでしょうか」
「こういうのに興味があるの? これは国から持ってきた葉を淹れてもらったのよ」
「ああ、道理で。初めて嗅ぐ香りです」
 祖国からただ一つだけ持ってきた衣装箱の中には、母からの心づくしの品々が入っている。あの忙しい彼女が手ずから選んでくれたものだ。茶葉もその一つだった。
「気に入ったのならまた淹れて上げるわ。他にお客様もないし」
「王の運びがないのは、お寂しいですか?」
「いいえ、まさか」
 強い口調で断じると、彼はまた苦笑した。
「本当はお優しい方なんですよ」
 初対面の人間を醜いだのと罵る男に、優しいと形容するなど的外れにもほどがある。
 
 クルフが退出すると、外側で部屋の錠が下ろされる重たい音がした。女官が出入りする時も同じ。私が出られないように扉は厳重に管理されている。
 窓も開かず、大きな一枚硝子が嵌め込まれた枠の向こうに、広がる庭園が見えるだけだ。こんな空気も入れ替えられない環境で、あと七ヶ月も過ごすのかと思うと気が滅入って仕方ない。
 綺麗に手入れされた庭は見通しが良く、この窓から覗ける風景はかなり広かった。その中を歩む黒い影を見つけ、私は硝子越しに強く睨みつける。二日に一度は必ず、彼はここを通った。向かう先は私の隣にある棟だ。
 今日は軽装で、骨ばった体つきがよく分かる。猫背なだけでなく軽く傾いた奇妙な歩き方をする人で、ゆらゆらと揺れる背で束ねられた長い黒髪が落ち着かなかった。その姿はどこかしら頼りなく、私に対して傲慢に振舞った彼とは別人のようだ。
 隣の棟にはシアーが住む。二日と空けずに彼女の下へと通う姿を、私が見ていると夫は知っているのか。
 とても気付いているとは思えなかった。庭を散策する彼は酷く無防備だ。空を見上げたり、果実をもぎ取って囓ったりして、ゆっくりゆっくり彼は歩く。そうして、シアーに会いに行くのだ。
 私を蔑んだ男。私を利用する男。顔を会わせればまた彼は私を傷つけるだろう。それが分かっているのに、こうやって違う女の下へ向かう幸せそうな姿を見て私の胸は何故痛む。
 不可解な感情に混乱して、私は窓から目を逸らした。あんまり長く一人で閉じ込められて、きっと少し疲れているのだ。そう思う事にする。
 同じ鳥籠の女なのに、私とシアーの環境はあまりにも違った。







   四.美しい女

 子供がシアーから生まれたのでは、何故いけないか。それをクルフに尋ねた事がある。
「シアーは流民の出身です。そんな女が産む子では議会が世継と認めません」
「それでも半分は王の血じゃない」
「我が王も先代の庶子ですから」
 それ以上は下賎の腹は借りられないという事のようだ。女子が王位を継ぐ私の祖国では、あまり縁のない感覚だった。
「それで私の子なの。適当ね」
「そうでもありませんよ」
 この男は主の熱心な信奉者だ。時折こちらを唖然とさせる話を平気で口にした。
「シアーは白い肌に金髪の女性なんです」
「それがどうかしたの」
「ですから彼女が身籠った事で、白い肌で金の髪が珍しくない国から、急いで正妃を迎える必要ができました。生誕された王の御世継に不審がないように」
「まさか、だから私の祖国に攻め入ったなんて言わないでね」
 クルフは微笑んだまま答えない。ならば寵愛する女が産んだ子を王位につけるためだけに、夫は戦争を起こしたというのだろうか。
「……妃が必要なだけなら、戦争など必要無いでしょ。わたしの国なり他国なりに、正式に婚姻を申し込めば良かった」
「それでは不足です。この計画を知っても、不満の声を上げずに協力してくださる高貴な姫君が欲しかったのです」
 だから敗戦国から和平と引き換えに私を買った。私は、夫がシアーという女のために手に入れた便利な道具なのだ。
 
 なるほどシアーは美しい女だった。祖国の宮廷で美女など飽きるほど見尽くした私が、思わず言葉を失うほどの美貌。
「あなたがシアー?」
 名を尋ねる声は少し裏返った。抜けるような白さの肌はその下に青い血管を透かしながら、華奢な肢体を覆う。無造作に散らされた重たい金の髪が素肌を這い、それだけで十分に装飾品の役割を果たしていた。
 窓際の長椅子で午睡に耽っていた彼女は突然の来訪にも全く驚きを見せず、うっそりと私を迎える。容易く折れそうにか細い手足が、酷く重たげに扱われていた。
「はい。あなた様は」
「わたしはアナイス。王の正妃です」
「まあ」
 声を出すのも億劫だと言わんばかりに、彼女は最小限の言葉しか口にしない。客が訪れても立ち上がる素振りもなく、肘掛に凭れたまま眼だけを大きく見開いていた。
 なんて大きな瞳。半ば感嘆して私はその翠の双眸に見入る。白い部分がほとんどない眼は、濡れた大きな玉石のようだ。
「王にあなたに会うお許しを頂いたので、早速来てみたの。座ってもいいかしら」
「どうぞ」
 示された椅子に腰掛け、私は改めてシアーを眺める。無気力な細い身体で、膨らんだ腹部だけが別の生き物のように息づいていた。
「もう随分とお腹が大きいのね」
「あと一月で出るそうです」
「すぐじゃない」
「はい」
 あと一ヶ月。頭の中で素早く逆算すると、確かに宣戦布告の時期と合う。代替わりしたばかりの青年王に、私の祖国は瞬く間に負けてしまった。奇襲急襲を繰り返され、戦死者は数え切れない。その散った命の全てが、この女のためにあったのだ。
 美しいけれど倣岸な女だと思った。それとも美しいから傲慢なのか。過分な重みを背負った妊娠を余りにも無関心な様子で語る。「出る」という表現もまた、まるで物を指すようで気に入らなかった。
「あなたが育てるの?」
「何を?」
「何をって、お腹の子に決まってる」
「まさか」
 思いもかけないことを言われたという表情が、シアーの繊細な顔に浮かぶ。細く整った眉が強く寄せられていた。
「私がやらなくちゃいけないのは、これを出す事だけって約束です」
「子供は嫌い?」
「いいえ」
「なら自分の子が愛しくはないの?」
「これは私の子じゃなくて、王様の子です」
 これでは身籠った彼女のために手を尽くす夫が形無しだ。微塵も愛情が感じられない物言いが、男の滑稽な努力を浮彫りにする。
「あなたは王を愛していないの?」
「感謝しています」
「何に?」
「私を自由にしてくれることに」
「閉じ込められているじゃない」
「これから、そうなるんです。これが終われば」
 うっとりと愛しそうに自分の腹を撫でるシアーは一見母性を表しているようで、言葉がそれを裏切っていた。けれど彼女が何を言っても夫は許すのだろう。この無感動な女の下に、足繁く通う彼の姿を思う。
 何故だか、この美しさという免罪符を持つ女に途方もない敗北感を覚えた。
 
 シアーの部屋を出たところで、夫と行き合った。三ヶ月振りの外出で、ほんの二十歩の距離なのに怖ろしい偶然だ。彼の姿を見つけた瞬間に、身体が固く強張る。
「変わりないか」
 傷つけられる予感で気構えたのに、掛けられた声は意外にも優しい。思わず警戒が緩んで、彼の顔をまともに見返した。
「はい、王は」
「余も変わりない。あと七ヶ月、足りぬ物があればクルフに言うがいい。用意させよう。お前は書物を好むと聞いたが」
 これは誰だろう。あの暴虐な言葉を吐いたのと、本当に同じ男か。
 身体の力が抜けると同時に涙腺が緩む。夫に対して、そこまで怯えていた自分に今更気付かされた。
「物語と、国政についての本を頼みました」
「なぜ泣く? 生活が辛いか」
「いいえ。ただ、少し疲れて」
「では泣くな。弱さは曝け出せば切りがない。生き抜くには不用のものだ」
 ふいに頭に心地よい重みが乗る。そのまま大きな手掌に撫でられた。頭を撫でられるなんて、もう何年振りだろう。父親が生きていた頃以来だ。嫌では、なかった。
「だが、なぜ物語と政治だ。妙な取り合わせだな」
「政治は人心の物語でしょう」
「ある意味では、違いないな」
 長身の夫と視線を合わせるには、彼を見上げなくてはならない。私の目は上向いて、口元を緩めた彼を不思議な物として捕らえた。
「もう行け。お前の姿を、誰に見られぬとも限らんからな」
「はい。シアーに会うお許しを下さって、ありがとうございました」
「会ったか。どう思った?」
「美しい人ですね」
「ああ。お前とは、随分毛色が違うようだ」
 去り行く夫の言葉は思わぬ刃物だった。何の悪意も感じられない口調が、構えを解いていた心を切りつける。シアーは美しく、私などそこに遠く及ばない。
 そんな事は分かっていたはずなのに、心が抉られた。






   五.赤子

 いつものようにシアーを訪ねると、これまたいつも通りに先客がいた。
「お前も来たか。近頃、よく顔を出しているようだな」
「またお邪魔をしてしまったようで、申し訳ありません。わたしは出直しましょう」
「構うな。お前の子の見舞いだろう」
 人の腹にいる子供を、私の子と言われても困る。しかも夫と、彼の子を身籠った愛人に囲まれて三人で何を話せばよいのやら。
 本気で出直したかったのだが、彼に手招きされては無視して退出するわけにもいかなかった。こんな奇妙な顔合わせが最近頻繁にある。どう考えても私は二人の邪魔なのに、やたら機嫌の良い夫に毎回必ず引き止められた。シアーの方は相変わらず関心もなさそうに、焦点の合わぬ目で宙ばかり見ている。
「どうした。座れ」
 空いているのは夫の隣だけで、わざわざ別の椅子を持ってくるのも不自然だったから、仕方なくそこに腰を下ろした。出来るだけ、彼から身を離す。
「もうすぐ余の息子が生まれるぞ」
「はい。楽しみですね」
 満面の笑みで子を待望する夫は、まるで自身が子供のように無邪気だった。私の明らかなお愛想にも気付いた様子がなく、愛おしそうにシアーのお腹を見つめている。
 一段と存在感を増す腹部に対して、シアーは更に痩せ細っていた。きちんと食事を摂っているか聞いても「必要な量は食べている」と、にべもない。だがこの様子では、明らかに足りていないだろう。夫に注意を促そうかとも思ったが、そこまでする義理はないと考え直した。私などが心配しなくても、シアーを気に掛ける人は他に沢山いるに違いない。
「王様」
「なんだ、シアー」
「約束を、お忘れにならないでください」
「造作ない。大事な体だ、気を病ませるな」
「ならば良いのです」
 訳の分からない会話の後、シアーはうっとりと微笑む。これも見慣れ始めた光景だった。夫は一体彼女に何を約束しているのだろう。桃源でも夢見るかに視線を泳がせる彼女は、肉が削げ落ちてもやはり綺麗だった。
「子は腹を蹴ったりするのか」
「はい。元気な御子です」
 見蕩れるほどの笑顔に全く気を払わず、夫は彼女の腹にいそいそと手を触れさせていた。
「アナ、来い」
「は、はい」
 勝手に短縮された名前はまだ耳慣れず、呼ばれても咄嗟に反応できない。
「お前も触ってみろ。動いているぞ」
「ですが」
「お前の子だぞ。触れろ」
 人の胎で動く子供など不気味だ。全くもって触りたくなかったが、有無を言わせぬ口調の夫に手を掴まれ、そこに押し付けられる。
 言葉もなかった。
 緩い衣装を通して触れるシアーの腹は不思議な固さで、中で蠢く何かの感触を伝える。だがそんなものよりも、私は夫の手が気になって仕方なかった。こんな風に触れられた事は今までにない。骨の太い手が私の掌を包み込む。それは私の手を覆ってまだ余るほど大きく、低い体温を私に伝えた。
「よく動く。余の息子は強く育つぞ」
 驚くほど近くで聞こえる声と、当たる肩の感触が思考を掻き乱す。ただ離して欲しい一心で、私は何度も首を頷かせた。彼にとっては何ほどもない行為だと分かっているのに、焦りが治まらない。
 助けを求めるように顔を上げて視線を彷徨わせ、シアーと目が合った。感情の無い眼差しが私に注がれている。頬が熱くなった。
 私は馬鹿だ。自分に興味がない夫を意識して、その夫が愛する女にそれを気付かれる。これほどみじめな状況も無かった。
 仄かに口元を緩めたシアーの表情が、私を馬鹿にしているようで耐えがたい。
 
 その夜半にシアーが産気づいた。私は部屋で既に寝入っていたのだが、手が足りないと年嵩の女官に揺すり起こされた。シアーに対するわだかまりはあったが、そこで手伝いを拒否するのもあんまりだ。
 大人しく彼女に連れられて隣の棟へ赴くと、部屋は随分と様変わりしていた。家具には全て白い布が掛けられ、寝台の上ではいつも人形のようなシアーが悶え苦しんでいる。
「わたしは何をすればいい?」
「シアー様を励まして差し上げてくださいませ。腰を落として背に力を入れるように」
 慌しく動き回る女達にそう指示され、私は仕方なく彼女の下へ行く。励ますだけの役なんて要らない気もしたが、わざわざ私を呼び出したのだから、重要なのかもしれなかった。
 部屋にいるのは女官四人だけで、これが奥宮にいる使用人全てだと聞いていた。医者の姿もないから、よほどこの出産は内密にしなければならないのだ。だが女官達は手馴れたもので、お産は危なげなく進んでいった。
「シアー、大丈夫?」
 私はと言えば、ただ彼女の手を握り締めて激励するくらいしか出来なかった。
「頑張って。子を産んで自由になるんだって、言っていたでしょ」
 上手い励ましが思いつかなくて、彼女が唯一嬉しそうに話していた言葉を持ち出す。次第にその場を支配する熱気が、私をも飲み込んで奇妙な昂ぶりを与えていた。
 そして弾けるような赤子の声で、それが頂点に達する。激しい泣き声は、まるで動物を思わせるかん高さだった。
「生まれたか!」
 途端に無遠慮に扉が開き、夫が入ってくる。泣き喚く子供は手際の良い女達に産湯につけられ、あっという間に白い布で包まれていた。
 それを目にして、夫が破顔する。煌々と照らされた白い部屋の中、闇の中から抜け出してきた彼は相変わらず真黒で、部屋に夜が入り込んできたかのようだった。
「抱かれますか」
「ああ」
 先ほど私を呼びに来た年輩の女官が、夫に赤子を手渡す。危うい手つきで我が子を腕に抱き、彼は歓声を上げた。
「余の息子だ!」
「おめでとうございます」
 彼の後ろから入室してきたクルフも、相好を崩している。私はシアーの小さな手を、両手で握り締めた。月並みな表現だが、確かに母になったばかりの人は神々しかった。
「まだお産は終わっておりませんから。後産というものがあるんですよ」
 まだ若い女官が微笑んで教えてくれる。
「まだお疲れ様とは言えないのね。シアー、あと少しだけ頑張って」
「いいえ、もう全て終わりました」
 私のねぎらいを、こんな時もシアーは受け入れない。そして、背後で悲鳴が聞こえた。
 振り返った私の目に飛び込んだのは、たった今まで言葉を交わしていた女官の、首がない身体。
 赤い物が辺りに噴き出して、私の頬や服に降りかかる。ゆっくりと崩れ折れた身体が床にぶつかる音が、やけに遠く聞こえた。
 一体、何が起こっているのか。
 刃を抜いたクルフが、次々と女達を殺しているように見えるのだけれど、そんな馬鹿な。
 これは、一体。何。何なの。
 一体、これは。
「アナイス様、どうかなさいましたか」
 瞬く間に三人分の死体を積み上げて、クルフが笑顔で私に聞く。彼の服はぬめりを帯びた赤い色。真っ赤な服。そんな格好で、どうしてこの男はいつものように微笑んでいるのだろう。こちらまで釣られて笑ってしまいそうに愛嬌が溢れた片笑窪。
「わたしも殺すの?」
「まさか」
 否定されても安堵は出来ない。この真っ赤な部屋に、私が安心できる場所なんてない。
「アナ、お前の子だぞ。抱いておけ」
 この異様な状況の中で、夫は何の変化も無い。大切な壊れ物を渡すように、私に赤子を抱かせた。皺くちゃの小さな生き物が、私の胸で泣き疲れて眠っている。
「頭の下から支えを外してはなりませんよ。そうっと背中を撫でて差し上げるのです」
 ただ一人生き残った女官が、私にそう教えた。なぜこの女だけ生かされているのか。彼女の顔にも、クルフと同じ不可解に温かみのある微笑が浮かんでいた。
 この場で動じているのは私だけ。ならば、これは私が見る夢なのかもしれない。目が覚めたら、きっと平和な寝台にいる。きっと、そうだ。そうであって欲しい。
「シアー、ご苦労だった。約束を果たそう」
「はい。ありがとうございます」
 夢は夢だと気付けば醒める物なのに、この悪夢は何故終わらない。
 夫がシアーの胸に、剣を突き立てる。彼女の長い長い睫毛が一瞬だけ強く揺れて、すぐに伏せられた。ことりと小さな頭が落ちる。
 そうやって眠った顔は、私が知るシアーの表情の中で一番幸せそうだった。刃が引き抜かれた痕から、彼女の真白な衣装に赤い花弁が広がっていく。
「シアーは、もう踊れない踊り子だったんですよ」
 釘付けになった私に、クルフが何かを説明しようとする。夫がシアーの身体に布を掛けてやっていた。
「彼女は死を望んでいました。愚かな娘だ」
「そう言うな、クルフ。あれは余に子を与えてくれた」
 夫の表情は、ほんの少しだけ悲痛そうだ。けれどそれも私の腕で眠る赤子を見た途端に、笑顔に変わる。眼鏡に飛んだ赤い物を拭いながら、彼は愛しそうな視線を幼子に注いだ。
「どうして、シアーを殺したのです。彼女を愛しんでいたのではないのですか」
「あれの望みだ。自由に死ぬ権利と引き換えに、余に子供を与えた」
 彼はもうそれ以上話す事はないといった様子で、私の手から赤子を抱き上げる。
「ならば、使用人達は!」
「子が起きる。声を荒げるな」
 私の問いへ返るのは、ただ忌々しげな視線だった。代わりに、別のふくよかな手が私の肩を包み込む。
「この秘密だけは洩れてはならないのです。良い子たちでしたけれど、仕方ありません」
 生き残った女官は、今夜この場所へ私を導いた女だった。
「アナイス様、ご紹介が遅れておりました。私の母、マリニアです」
「あら、クルフ。申し上げてなかったの」
 母子と言われて、これほど納得出来る取り合わせもなかった。同じ不可解さをその面に湛える。
「なぜ私は殺さないの」
「アナイス様は、まだ御子を産まれてない」
「つまり、あと六月後には殺されるのね」
 私の言葉に、赤子に夢中のように見えた夫が顔を上げる。
「お前は死にたいのか」
「いいえ。けれど、そうなるのでしょう?」
 何故こんな事を淡々と聞けたのか。この時の私は、明らかにどこかが麻痺していた。
「ならば、口を閉ざせ。子には母が必要だ」
 夫の腕で、あと六ヵ月後に産声を上げる予定の赤ん坊がすやすやと眠る。それが私の子でないと知るのは、この世界でたった四人。
 他は、全ていなくなってしまった。






   六.怖れ
 
 それでも時間は過ぎて行く。
 火の消された暖炉を眺めながら、膝で子を遊ばせる。部屋に響くのは子供がはしゃぐ声と硝子越しの鳥の声、余りにも平和な午後。
 この赤子が生まれてから五ヶ月経った。あと一月の後、私は生きていないかもしれない。
「アナイス様、どうなさったんですか?」
「ちょっと考えごと」
「今夜も王様、いらっしゃるといいですね」
「そんなことを考えていたわけではないわ」
 苦笑した私に、大きな眼の悪戯っぽい瞬きが返る。この若い娘が「私の子」の乳母だ。
「お二人はとっても仲がよろしくて、羨ましいです」
「そんなんじゃないって、言ってるでしょ」
 朗らかに笑う十六歳の少女を、私は嫌いではない。得体の知れないクルフとは違い、安心して心を許せた。
 本当の事は、話せないけれど。
「さあさあお二人とも、昼餉の時刻ですわよ。エージカ様に夢中なのは分かりますが、御自分のお食事も忘れてはなりません」
 マリニアが昼食の膳を持って、私達に割り入ってくる。その優しい笑顔が裏に秘めた物を知るのは、私だけで十分だ。知ってしまえば命の危険に怯える事になり、そんな負担を若い娘に背負わせるのは忍びない。
「聞いてください、マリニア様。アナイス様ったら、お可愛らしいんですよ。王様の事を考えていらしたんですって」
「キース! 違うって言っているでしょ」
「まあまあ、素敵ですこと」
 全て分かっているくせに、マリニアは人の良い仮面を崩さない。
「大変なロマンスでしたものねえ」
「偶然に出会ったアナイス様のためなら、戦さえ辞さないなんて情熱的! そんな恋って、本当にあるんですね」
 あるわけがない。そう口を挟みたいのを堪える。これはこの乳母を生かすための嘘だった。嫁いだ時期と明らかに計算の合わない赤子の世話を申し付けるため考え出された話は、夢見たい年頃の少女を酷く満足させたようだ。おかげで私は、恋などのために戦争を看過する馬鹿者にされてしまった。
「そんな幸せなアナイス様に、もう一つ素敵な報せがございますよ。今日も王がお運びになるそうですわ」
「噂をすれば影かしら。良かったですね」
 二つの笑顔を向けられて、私は無理矢理に微笑みを作る。こうやっていると、まるで本当に自分が幸せな女になった錯覚に陥りそうだ。愛する男の下へ嫁ぎ、世継にも恵まれた幸せな王妃。
 現実にそんな女はどこにもおらず、私の命は風前に晒された灯火だ。公けに子供を出産してしまえば、夫が私を生かす理由はない。
 けれど私は二国間の和平を象徴する者として、ここにいるのだ。逃げ出す事は決して許されなかった。その行き場のなさが、私を幸せな夢に逃げ込ませようとするのだろうか。
 
 夫の訪れに備えて装いを整える。マリニアに命じて、祖国の茶も淹れた。幾種類か茶葉を持参していたが、彼はその葉が一番好きだ。併せて茶菓子も用意しながら、底を付いてきた茶を国から取り寄せなければと考えた。そして、そんな自分に気付いて呆れる。
 この半年近くで、いつの間にか夫の好みを考えるようになっていた。彼が私の下を訪れるのは、子供の顔を見るためだ。ほぼ毎日のように執務を終えた彼はこの部屋に顔を出す。怖ろしく子煩悩な男だった。
「余のエージカは、今日も元気か。そうか」
 微かに無精髭が浮く顔で頬擦りして、赤子が微妙な表情をしても気にしない。あやすと笑うと言っては喜び、寝返りを打つのを見ては騒ぎ立てた。どちらが子供だか分からない。
「本日もお疲れ様でした」
「ああ。だがエージカとお前の顔を見ると、疲れも飛ぶな」
「それと、お茶もお好きですね」
「違いない」
 夫と話すのは単純に面白かった。彼はその日の出来事を時々に話し、私が軽い感想と意見を述べる。最初はキースの手前で仲睦まじさを演出するための会話だったのだが、近頃は気付けば白熱する事が多かった。
 夫が取る政策は、母女王の補佐として隣で学んだ物とはまた違う。間の溝を埋めるために論を交わしているうちに、新しい方策を思いついたりもした。そんな時には、夫の細い目が眼鏡の奥で喜びで光る。それを見ると、してやったりな気がして嬉しくなった。
 そして、それを喜びと感じている自分が怖くなる。この人は、私を蔑んだ末に殺す男。そんな相手に私は何を期待している。
 茶を渡す時に触れ合った指先が、熱い。






   七.妃

 身体を貫く刃に悲鳴を上げて、飛び起きる。今のは本当に夢か、私を刺した男の顔をすぐそこに見つけて、また叫びそうになった。
 大丈夫。今のは夢。たとえ近い将来に現実になるかもしれない絵でも、夢には違いない。幾度も心の内でそう呟いて、自分を落ち着かせる。夫がシアーを刺した光景を自分に重ねてしまった。
 私の隣で眠る人は、大声にも目覚める様子なく静かな寝息を立てている。疲れているのだろう。最近は随分と忙しいと言っていた。
 部屋を訪れた夜には、こうやって夫は私の寝台で眠る。人に触れてくるでもなく隣で休むだけだが、私の心は様々にかき乱された。
 彼が怖い。それは確かなのに、どうしてその解かれた黒髪に触りたいと思ってしまうのだろう。鼻の付け根に刻まれた眼鏡の跡も、少し間抜けで可愛らしい。
 自分が分からなかった。この人を好きになる理由なんてない。私を醜いと思っている男だ。私を殺すかもしれない男だ。私は何を血迷っているのか。
 瞬きすると敷布の上についた指の間に熱い雫が落ちてきて、自分の涙に気付いた。何て馬鹿な私。万が一にも夫が起きて、泣いているところを見られるのだけは嫌だった。これ以上自分をみじめにしたくない。
 こっそり寝床を抜けだそうとすると、何かにそれを阻まれた。その正体を確かめて本気で驚く。骨太の大きな手が、私の衣を掴んでいた。引張っても外れなくて、私は仕方なく上衣だけ脱ぎ捨てて夫の手に残す。寝惚けるにも人騒がせな人だった。下には薄い衣しか着ていなかったが、寒い日ではないから問題無いだろう。何より、衣を離してもらうために彼の手に触れるなんて出来ない。
 
 居間に出て扉を閉めたところで、微かな物音に気付いた。風が入るような造りの建物でもないから、控えの間にいるキースが何かしているのかもしれない。
 暗がりに耳を澄ますと、小さな寝息が聞こえた。部屋の中央に据えられた揺り籠を覗くと、案の定赤子が親指をしゃぶりながら眠っている。
 舐り癖は直そうとキースと話し合っていたから、そうっと口と手を離してあげた。起こさないように気をつけたつもりだったのに、黒い眼がぱちりと開く。小粒の闇。彼の父親と同じ深い黒に、胸が疼いた。
 一度は治まったはずの涙がまた溢れ出し、頬を伝って赤子の上に落ちる。そんな私を慰めようとするかに、小さな両手が上を向いた。
「いい子ね、エージカ」
 寝床から抱き上げると、赤子は笑い声をあげて手を振り回す。柔らかい温もりと匂いに、ささくれた心がほんの少し癒された。
「ごめんね、駄目な母親で。いつまでも一緒にいられたらいいね」
 私が産んだ子供ではないが、それでも私が彼の母には違いない。シアーはこの子の顔を確かめる事すらなく逝った。私もいつまで側にいられるか。恵まれているようで、その実可哀想な子かもしれなかった。
 
「お前がアナイスか」
 ふいに耳元で声がして、咄嗟に思い切り身を引いた。首筋に何かが食い込む感触。その正体を悟るより前に、そこから溢れた温い液体が首から胸元に流れ落ちる。
「…っ」
 最初は違和感だけだったものが、じわじわと激痛に変わる。叫び声を上げようとした私の口に、乱暴な手が中まで突っ込まれた。舌の上に感じる指のごつごつした苦い味が気持ち悪い。首が痛い。
「あんた、何やってる。まだ殺すには早いだろう。確認もしてないぞ」
「この女が急に動いたんスよ。自分から切られにきてりゃ、世話ないスね」
 前に二人、背後にはおそらく私を拘束する男が一人いる。布で顔を覆い、目だけを覗かせた風体の曲者達が私を取り囲んでいた。先ほどまで何の異常もなかったはずなのに、一体どこから現れたのか。
 本能的に、私は胸の内に赤子を深く抱き込んだ。屈んでしまいたかったが、私を押さえつける力がそれを許してくれない。
 首に当たっているのは刃物のようで、先ほど不用意に切ってしまった箇所が酷く痛んだ。
「でも、どうせ殺すんスよね。騒がれるのも面倒だし、このまま一気にやっちゃうのがいいスよ」
「アホか。いつもの仕事と違うんや。お前さんのヘマで、大口の客を逃してたまるか」
 人の生殺与奪について、やけに気軽に話しあってくれる。この男達は一体誰の手による者だろう。私の死を望むあたり、夫が差し向けたのかもしれなかった。シアーと違い、私などに彼自らが手を下す必要はないと考えたのか。
 だが直後に、有難くも狼藉者達の方で私の疑念を否定してくれた。
「こんな金髪、例の外国女しかいないスよ」
「いいや。王が一人だけ残した愛妾も、金髪の女だという情報がある」
「そないなわけや。大体、王妃やったら妊娠してるはずやろ。こらもう生まれてんぞ」
「ああ、そう言われればそうスね」
 夫が放った人間なら、シアーの死を知らないはずがない。それどころか、私を彼女と判別しかねている口振りだ。とりあえずは、これが夫の望んだ事でなくて安心する。
「だがこの女、子をエージカと呼んだな。それは確か、直系の王子につける名だ。サモン、その女の口を少し離してくれ」
「騒ぐスよ」
「騒いだら、撫でてやればええ」
 目の前にいる二人のうち背が高い方が「撫でる」と言いながら、私に見せつけるように剣の柄を叩く。騒げば切ると言いたいらしい。心よりも身体が怯えていて、抑えても抑えても膝の震えが止まらなかった。せめて子供だけは落とすまいと腕に力を込める。
「女、あんたの名前は何だ」
「お前達こそ何者なの。こんな狼藉が許されるとは思わないで」
 時間を稼ぐため、精一杯の虚勢を張った。
「はいはい。孃ちゃんは聞かれた事に答えれてればええねん」
「…ぐっ」
 目にも止まらぬ速さで、長身の男が私の髪を掴み上げる。毛を引張られる痛みもあったが、それよりも首の傷が引き攣る激痛が私を呻かせた。目の前がちかちかと白く光る。
「うわあ。なんかお上流な女の髪って、えらく触り心地がええわ。ええ匂いやし」
 人の髪を掴んだまま、呑気な声が上がる。怖気だったが、身動きが取れなかった。
「さあて、孃ちゃんも反省したやろ?名前、答ええな」
「…シアー」
「王の愛妾か。では、その子供は何だ」
「王子の乳母になる女に頼まれて、子をここで寝かせていた。正妃なら隣の棟よ」
 苦しい言い抜けだったが、他に思いつかなかった。死んだ女の名が不吉でないといい。
「それでは、この赤ん坊はあんたの子じゃないんだな?」
「当然よ。子なんて、身籠った記憶もない」
 それは紛れも無く本当の話だ。だが嘘にまみれた環境では、真実こそが嘘となる。
「ほう。だがさきほど一人で、子供に向かって母親だのと呼びかけてなかったか?」
 そうだ、独り事を聞かれていたのだ。失敗に気付いても、もう取り返しがつかない。
「女の嘘って、ホンマに浅いなあ。もうちょっとは頭働かせえよ。隣に誰もおらへん事はとっくに確認してるんや」
「だがこの女が正妃で、子がエージカというなら、王子はもう生まれてる事になるぞ。どうして伏せられている」
「お偉いさんの事情なんて、よう知らん。放っとけ。正妃と胎の子を始末せえって依頼や。生まれてんなら、両方消してくまでよ」
 絶望的だった。
「違う! わたしはシアーだと言ってる」
「はいはい、もうええって。サモン、孃ちゃんの口を塞いどき。煩そうてかなわん」
「了解ス」
 最後の足掻きにも、男達は聞く耳を持たない。こんなのは嫌だった。どうして私はこんな所で死ななければならない。同じ殺されるなら、夫の手に掛かる方が数万倍ましだ。こんな見も知らぬ粗野な男達の手で、何もかも断ち切られるなんて。
 せめて最後に夫の顔を見たかった。子供を助けるためでいい。私を助けてなんて言わない。だからお願い。最期にあの人に会わせて。
 また口元に伸びて来た指に、思い切り歯を立てた。それに続くように、後ろの男が私から離れる。一瞬、細やかな抵抗が功を奏したかと思った。
「余の妃に、汚い手で触れるな。下郎」
 男の手が緩んだ瞬間に身を捩って逃げた私を、強い力が引き戻す。狂乱して暴れる身体をその腕が抱き締めた。
「はなせ…っ」
「落ち着け、余だ! アナ」
 私を抱き止めたのは、固い胸。骨ばった身体。それは黒い夜着に包まれ、見上げた先には、最期に会いたいと願った人の顔。
 その眼差しは鋭く、私の背後にいる侵入者達に向けられている。
「お…う?」
「無事か」
「はい。王子に大事はありません」
「そなたは」
「え…? わ、わたしも」
 夫が私の安否を気にしてくれるとは思わなかった。状況がそうさせたのだろうか。足元には夫が斬ったらしく、首を半ばもがれた男の身体。がっちりとした体躯は、私を押さえつけていたサモンという男のものだろう。
「お前達は何者だ。誰に命じられたか正直に言えば、罪状を酌量してやらぬでもない」
 冷えた声、冷えた視線、冷えた空気。君主の例に漏れず、彼は場を支配するのが上手い。私は喉を鳴らし、背後の男達を振り返る。彼らも先ほどまでの威勢を失っていた。
「…と仰ってんやけど、どうする」
「是非も無い。サモンがやられた」
「王を殺るのは、依頼に外れるんやけどな」
「だが、どうせ雇い主も喜ぶ」
 その会話が終わらぬうちに、夫から強く横へ突き飛ばされた。咄嗟に赤子を庇い、身を丸めて転がった私の前で、二人の覆面が彼に襲い掛かった。激しい剣戟が始まる。薄暗い部屋の中で幾度となく火花が光った。
「王!」
 私には為す術もないが、このまま放置すれば夫が危ない事は明白だった。暗殺者二人を相手に一歩も引けを取らない彼の様子は驚きだが、それでも不利には違いない。
 せめて何か助けになる物をと考えて、果実を切るための小刀を思い付いた。あれなら敵の足を止めるくらいには役立つかもしれない。急いで取りに行って、ついでに机の下に泣き喚く赤子を隠した。
 争う男達の所へ戻って、刀を構える。踏み込んでは夫の足手まといになりそうだから、投げつけようと曲者の足を狙ったが、動きが激しくてなかなか的が定まらない。思い切って胴体に向けて放った。
 上手く飛んでくれと祈ったのが効いたか、武器は敵の尻を掠める。しかも体勢を崩した男が落ちた刀を踏んで、更に滑った。鈍い音を立てて長身の男が無様に倒れる。
「やった!」
 思わず歓声を上げてしまった。だが、床に尻餅をついた男は何故か飄々とした表情だ。
「…ってぇ。孃ちゃん、やってくれんなあ」
 夫はもう一人の男との争いに手を取られていたが、それに目をやって、叫んだ。
「アナ、逃げろ!」
「遅いってえ」
 気付けば、男が私の小刀を構えていた。
「ま、これで依頼くらいは果たせんな」
 もう駄目。強く目を瞑る。そして、ひゅっと空を切る音。
 だが痛みはいつまで経っても訪れなかった。恐る恐る目を開けると、床に叩き落とされた小刀と、剣を手に息を乱した夫の腹心の姿。
「クルフ!」
「遅くなりました。お許しください」
「アナイス様、ご無事ですかっ」
 そして、キースが泣きながら私に抱き付いてくる。
「クルフを呼んできてくれたのね」
 押し寄せる安堵で、足元が折れそうになるのを踏みとどまる。まだ何も終わっていなかった。私を支えようとする少女の手を断って、机の下に赤子がいる事を伝える。
「あの子を別の部屋に。ずっと泣いてるの」
 キースを送り出して、注意を男達へ戻した。剣を持つ四人が、牽制し合っている。
「我が王に刃を向けて、命があると思ってはいませんね」
「クルフと言ったな。あんたは、もしかして王の剣か」
「その名を知っているなら、話が早い」
「…そりゃあ、やべえ」
 どうやらクルフは有名人のようだ。異名らしきものが出た途端、明らかに暗殺者達が尻込みした。
「退くぞ!」
「逃がすわけがありません」
 驚くほどの素早さで身を翻した男達を追って、クルフも飛び出していく。嵐は訪れた時と同じ唐突さで、部屋を去っていった。
 
 私と夫だけが所在無げに残される。緊張はまだ解けなかったが、それは夫も同じようで、彼の口から長い嘆息が漏れる。そのまま座りこんだ彼に、思わず駆け寄った。荒い息で胸を押さえる彼の姿を見て、心臓が早鐘を打つ。
「お怪我をされたのですか」
「いや。少し、疲れただけだ」
「怪我はないのですね?」
「二度も言わせるな。休んでいるだけだ」
 つらそうな様子には不安が募ったが、怪我ではないらしい。とりあえずの安堵が全身に広がり、どっと緊張が緩む。
「王にお怪我がないなら、いいです」
 彼が無事ならいい。今は素直にそう思えた。
「お前は…少し、自分にも気を遣え。あのような馬鹿な真似を働いて、クルフがなければ命はなかったぞ。全く愚かにもほどがある」
 夫も変な人だと思う。いつか殺すはずの女が、人の手で命を落としたところで構わないではないか。少し可笑しかった。
「何を泣いている。お前はよく泣くな」
「泣いて? 笑っているのです」
「どこがだ。大体、その格好は何だ。そんな薄衣だけで歩き回るとは、正妃のする事とも思えん。誰かに見られたらどうする」
 部屋の中で、一体誰に見られると言うのだろう。本当に可笑しな事を言う人だ。何だか、近づいて来る夫の姿がやけに揺れて見えた。
「全く、これを着ておけ。…アナ、お前っ」
 夫が脱いだ衣が、ふわりと肩にかかる。なんて温かい。夢みたいだ。
「ありがとう…ございます」
「お前、この傷はいつ作った! いつから血を流していたのだ。アナ!」
 ああ、なんて幸せな夢。夫が私を抱きしめ、必死の眼差しで私の名を呼んでる。






   八.恋
 
 最初に目に入ったのは、窓辺の白い花。天井まである大きな窓は両側に開かれ、吹き込む風が顔に当たる。甘い匂いが鼻を掠めた。
「ここは……」
 ここは何処だろう。私の部屋には窓が開かない造りだ。
「アナイス様! 気付かれたんですね」
 赤く腫れた目のキースが、赤子を抱いたまま私に飛びついてきた。前にも似たような事があった気がすると記憶を探り、ようやく何が起こったか思い出す。
 私が目覚めたのは、奥宮の襲撃事件からちょうど一週間後の朝だった。
 
 首の傷からの失血で、私は一時危篤状態に陥っていたらしい。大変な騒ぎだったとクルフに語り聞かされ、自分の不用意で切ってしまった経緯は今更言い出せなかった。
「それより、王はご無事だったのね? あの時、お加減が悪そうだったけれど」
「御持病のために激しい運動は控えて頂いていますが、先日は大事に至りませんでした。ご心配は要りませんよ」
「持病?」
「心臓にお少しばかり」
 クルフはそれ以上を語らなかった。詳しく聞こうとしたのだが、あまり明かしたくない内容のようではぐらかされる。
 襲撃事件の方は、私が呑気に眠っている間に解決してしまっていた。首謀者はカルダナ公という夫の叔父に当たる人物らしい。
「あの時の曲者達が白状したの?」
「いえ。確かに一人は捕らえましたが、ああいう輩は口を割りませんよ。別口で、彼奴らとカルダナ公家の接触を押さえました」
「随分と手間の要りそうなことをしたのね」
「そうでもありませんよ。以前より公には監視を付けていたもので」
 きな臭いお家事情はともかく、件のカルダナ公にも気の毒な部分はあった。こちらの事情で、シアーと女官三人の殺害まで罪状に加算され、斬首台まっしぐらという話だ。
「お血筋から言っても、王に害なす危険な立場の方でしたから、今回の件はまあ怪我の功名ですね」
 その怪我で死にかけた私に、微笑んでそんな事を口にするクルフの神経が知れない。
 
 この日、夫は姿を見せなかった。彼が見舞いに来てくれる事を期待するのは、少し図々しかっただろうか。溜め息を吐いていると、マリニアに尋ねられた。
「今日一日、溜め息ばかりでしたわね。目覚められたばかりで、お疲れですか」
「そういうわけでもないんだけど」
「王は謀反を処理なさるのに、大変お忙しくていらっしゃるようですよ」
「誰もあの方の話なんてしてないでしょ」
 私の強い口調にも、彼女は苦笑するだけだ。
「とても御心配なさってました」
 言葉では何とでも誤魔化せる。それが分かっているのに、彼が気に掛けていたと聞くだけで心は勝手に弾んだ。そんな自分にますます嘆息したくなる。
「せっかくだから、窓は開けていってね」
「お休みの間に風邪を召されますよ」
「寒くなったら自分で閉めるわ」
 もう夜更けだった。日がな一日、夫の姿を待ちぼうけているうちにこの時間だ。少し情けなくなりつつマリニアを退出させる。
 事件の際に医師に診せる都合から、公式に私は出産を終えたと発表されていた。部屋も移っていて、もう扉に錠は下りず窓も開く。
 前々から、こうやって自由の身になればしたいと考えていた事があった。実は先ほどマリニアにも提案してみたのだが、病み上がりだと却下された。ならば勝手にやるまでだ。
 窓枠を跨いで庭に出る。地面に飛び降りると、草の感触が素足に心地よかった。思わず足踏みし、風を吸い込んで空を見上げる。今夜は下弦の月が空に鎌をかけていた。硝子越しでない生の自然は実に十ヶ月弱振りで、空気が酷く甘い。
 祖国では屋外に興味などなかったのに、無理に断たれると人は飢えるものらしい。それで夫に感謝するのも見当違いだが、この国に来なければ恐らくこういう感覚を持つ機会はなかった。
「アナ、どこだ」
 待ち望んでいた声は酷く間が悪く、今頃になって背後から聞こえる。恐る恐る部屋の中を首だけで覗くと、夫が寝台の布団を叩いているところだった。
「こ、こんばんは」
 この上なく間の抜けた声の掛け方になる。振り返った夫は、少し憮然としていた。
「……そんなところで何をしている」
「外に出てみたくて、つい」
 彼の事だから怒るかと思ったら、意外にも快活に笑われる。彼が私の前でそんな風に振舞うのは初めてだ。
「お前は堅いようで、よく突飛な事をする」
 長身の彼に低い窓枠は何ほどの障害でもなく、平坦な場所を歩むように彼は外へ出てきた。隣に立った彼の袖が肩に触れて、私は自分の掌を強く握りこむ。見上げた顔は月を向いていた。細縁の眼鏡越しに白い光が彼の目元を照らし出す。長い睫毛。
「国へ帰りたいか?」
「は?」
 突拍子もない問いに、思わず尋ね返した。
「……いや。言っておくが、お前は捨て駒だ。余が叶えねばならん願いのための」
「どんな、願いですか?」
「余が生きることだ。なかなか叶えにくい」
 捨て駒とはっきり告げられ、分かり切っていた事なのに胸が詰まった。虚脱感に襲われる私の横で、夫は低く喉を鳴らす。笑っているのか呻いているのか、判り難い音だった。
「余の母が今わの際に願った。余を庇って死んだようなものだから、無視もできん。今更だが、面倒な事を言い残してくれる」
「生きることが?」
「面倒だ。そういう意味で、シアーは余に似ている。だから拾い上げた」
「なぜ面倒だとお思いになるのです」
「さて、死んでいる方が楽な選択だったからかもしれんな」
 私を向いた夫の表情は逆光で見えなかった。ただ眼差しが注がれているのを意識して、そこを見詰め返す。
「余は生きて、余の生きた証を残さねばならん。そのために犠牲にしてきた者達のためにも、もう引き返す事はできんのだ」
「わたしはその邪魔ですか」
「ああ。お前を殺すつもりだった」
「過去形なのですね」
「殺せなかった。何故だろうな」
 私も彼に尋ねたかった。何故、彼を憎めないのだろう。愛しいと思う理由なんて何処にもないはずなのに、彼の語る声が寂しくて目蓋が熱くなる。
「お前が賊に捕われている姿に、久方ぶりに我を忘れたぞ。ああいう衝動がまだ自分の中にあるとは意外だった」
「わたしは……」
 私はあの時、彼に会いたいと願っていた。最期に会いたいと願った人が、今ここにいる。
「お前は余が憎くないのか?お前から祖国での安穏な生活を奪った人間だぞ」
 首を振る。元より祖国に私の居場所などなかった。
「国へ帰りたいか? お前がそう望むなら帰してやろう。どうせ殺せぬなら、ここにいようと国へ戻ろうと危険は同じだ。秘密だけ守ると約せ。それでお前を信用する」
「嫌です」
「この国で、そなたの命は保障できん。余には敵が多すぎる上に、いつ余の気が変わらぬとも限らんぞ。そなたか子かと問われれば、余は必ずエージカを選ぶ」
「それでも、嫌です!」
 祖国に居場所はなかった。この国にもないのかもしれない。それでどこにもないのなら、私がいたい場所を選ぶしかなかった。
「わたしを信用なんてしないでください。祖国へ戻れば、国利を優先して秘密を利用します。剣を向けられていないと、つい口が滑る質ですから」
 息継ぎもせずに言い募る。
「それに、わたしがこの国にいるのは二国の和平のためです。わたしを戻して再び事を構えるのは得策ではないでしょう?」
 好きだから側にいたいとは言えなかった。こんな時でもやはり、私は「可愛げのない」女でしかいられない。
 体温の低い掌が、私の頬を包んで上向かせる。月明かりに彼の輪郭がぶれていた。
「泣くな」
「泣いていません! わたしは、だから」
「もういいから、黙れ」
 踏み出してきた夫の胸に鼻先がぶつかる。頭に回った手がそこを更に強く押し付けたが、痛いなどと考える余裕はなかった。彼の身体についた耳から直接声が響いてくる。
「馬鹿な、女だ」
 そんな掠れた声で罵られても、痛くない。
「馬鹿でいいです。あなたの側にいさせて下さい」
「本当に、馬鹿な女だ」
 後は言葉もなく、近づいて来る吐息を私の唇に受けた。彼の指が触れた場所を、全て記憶に留めておこう。
 きっと、これ以上に幸せな時間なんてない。そんなものは望まない。






   九.花束
 
 女官に申し付けて祖国から取り寄せてもらった茶葉の封を切って、違和感に首を傾げた。聡いマリニアがすぐにそれへ気付いてくれる。
「どうなさいましたの」
「前のと、少し香りが違う気がして」
「もう一年も前のものですからね。古くなっていたのかもしれません。残っているなら捨てておきましょう」
「お願い」
 やはり新しい葉の方が良い匂いがした。私だけならともかく、夫も飲むのだから美味しいお茶を淹れてあげたい。彼は殊の外これがお気に入りなのだ。
 飲み物だけでなく、いつか私が育った祖国の都も見たいと言った彼の声を思い出す。そんな機会を持てるかどうか分からないが、私もあの美しい街を見せたかった。
 辛い記憶も多い祖国だが、もう思い出しても悲しくはならない。懐かしさが押し寄せるだけだ。今が満たされているからだろうか。
 はいはいが出来るようになり近頃めっきり行動範囲が広がった赤子に、キースはつきっきりだ。茶卓をひっくり返させないようにしてなどと騒いでいるうちに、いつの間にか部屋の入り口に夫が立っていた。
「……随分と、騒々しいな」
「申し訳ありません。エージカが意外にすばしっこくて、捕まらないんです」
「情けないことだ。来い、父だぞ」
 夫の顔を見た途端に、逃げ回っていたエージカが短い手足で懸命にそちらへ這っていく。一番可愛がってくれる人間を知っていて、どうしようもなく父親っ子なのだ。子を高く抱き上げる夫の姿はいつ見ても微笑ましい。
「しかし、疲れるな」
「お忙しいですか」
「いや、それほどではない。少し疲れやすくなっているのだろう」
「あまり御無理をなさらないでください」
 最近の彼はよく「疲れた」と口にする。時折は胸を押さえていて、持病の事もあって不安を誘った。病気について夫自身が語ったところによれば、心臓が動き難くなるものらしい。同じ病気を抱えていた彼の母は普通に生活していたから大丈夫だと諭され、それでも不安は治まっていなかった。
「あまり不安そうな顔をするな。今日はそういう日ではない」
「何かあるのですか?」
「……いや、クルフに教えられたんだ。女の方がこういう事には煩いと思っていたがな」
「何がですか?」
 マリニアが珍しく声を立てて笑っていた。
「はっきり仰らないと、アナイス様に伝わりませんよ」
「お前は黙っていろ! 今日で一年だ」
「一年というと、わたしがここに来てから」
「そうだ。だから」
 ぶっきらぼうに手渡されたのは、白い花束だった。どこかで嗅いだ覚えのある甘い香りがする。
 長さの酷く不揃いな茎が印象的だった。
「ご自分で、摘んでくださったんですか」
「気に入らなければ捨てろ。つまらん物だ」
「いいえ! いいえ、まさか」
 あんまり嬉しくて、幸せで、一年前に嫁いできたときには予感すら出来なかった。たった一年でこんなに何もかも変わってしまうのなら、あと一年後に私はどうなっているのだろう。不安もなく、そんな事が心を過ぎる。

 夫が倒れたのは、それから二日後だった。






   十.裏切り
 
 笑顔でないその男を目にするのは、恐らく二度目だ。初めて見たのは奥宮が襲撃された夜だった。夫に刃を向ける暗殺者達に、酷薄な表情で対していた彼を思い出す。
 クルフに剣を突きつけられ、私は後ろの壁に手をついた。それ以上下がれる場所がない。
「アナイス様、申し開きはありますか」
「一体、何の話? わけが分からない」
「あなたが祖国タレンハナよりお持ちになった茶の葉から、ある薬物が検出されました。王の暗殺を図られたことは分かっています」
「馬鹿なこと言わないで! あれはわたしも一緒に飲んでいたのよ。あなただって口にした事があるでしょ」
「白々しい。王の御持病を最初からご存知だったとは、さすがに思いませんでしたよ」
 クルフの言う意味が全く分からなかった。夫が倒れたとの報せに青褪めているところへ、駆け込んできた彼がいきなり抜刀したのだ。
 私と同じく状況が掴めないらしいマリニアが、顔を引き攣らせて息子を諌める。
「クルフ、剣を収めなさい! アナイス様はそのような方ではありません」
「母さん、証拠は揃っているんです。このままにはしてはおけません」
「だからと言って、いきなり物騒なものを抜く人がありますか。この件を王はもちろん御存知なんでしょうね」
「……王は未だ意識が戻られていません。それでも、一時の心臓が止まっていらした間よりは回復なさったようです」
 夫の心臓が止まった。それは何。自分の喉がひゅうと鳴る音を聞く。
「何の、話をしているの。王はご無事よね。持ち直されたのよね?」
「あなたが望まれた事でしょうに、何を今更。もう演技を続ける必要はありませんよ。いえ、続けても無駄だと言うべきですか。申し訳ないが、拘束させていただきます」
 クルフの合図で部屋に雪崩れ込んだ兵士達が、私を後ろ手に縛めて引き立てる。キースが目を見開き、信じられないと言いたげな顔でこちらを見ていた。私にだって信じられない。一体どういう誤解なのだ。こんな事をしている場合ではなくて、夫の無事を今すぐにでもこの目で確かめたいのに。
 王に会わせてと叫んでも暴れても、誰も耳など貸してくれなかった。一層強く腕を捻り上げられ、追い立てられる。
 
 木製の歯車と、金属の歯車を同じように回したらどうなるか。強く速く力をかけても丈夫な金属は無事だが、脆い木はそう長く持たない。歯は折れて砕け、すぐに取り返しがつかない事になってしまう。
 夫の心臓は、そんな壊れやすい歯車だった。
「お茶に染み込んでいたのは、心臓を強く動かすお薬なのだそうです。劇薬ですけれども、湯に溶け出す量くらいほんの少しなら健康な人に害はありませんの。ただし元々がお弱い心臓では、どんどん疲弊していって」
「そんな馬鹿なこと! だって、あれは母が持たせてくれたものよ。そんな事をして、タレンハナ側にどんな得があると言うの」
 陰気な地下牢に相応しく、マリニアは疲れた顔をしている。彼女の息子によって私が牢に放り込まれてから、もう丸一昼夜が過ぎた。
 食事を差し入れにマリニアが現れるたび、私は夫の容態を尋ねたが、芳しい答えは一度も返ってきていない。その上、聞く限りでは私の立場も一層危うくなりつつあった。
「ともかく、あの薬は偶然混入するようなものではありません。しかもアナイス様が御一緒に召し上がっている以上、誰も毒とは疑わない。王のご病気を知って、かつ知識ある者が仕組んだとしか考えられません」
「あなたもわたしを疑っているの?」
「いいえ。証拠の茶葉を、私に下げ渡されたのはアナイス様ですもの」
 私が捨てたつもりの古い茶葉を、クルフが彼女から受け取って調べたらしい。夫の病状は最近とみに悪化していて、不審に思った一部の者達が調査に動いていたとの事だった。
「王がお身体をそんなに悪くしていらしたなんて、聞いていない!」
「あなた様には伏せろと仰せでした。心配を掛ける事をお望みでなかったのでしょう」
「どうしてそんなこと」
 半ば悲鳴になった。
「もし教えてくれてたら!」
「教えて差し上げていたらどうだと言うのです。アナイス様は何も御存知なかったのでしょうに」
 マリニアの声音がふいに低くなって、私は鉄格子に押し付けていた顔を上げた。彼女は糸のように細めた目で私を見ている。刺すような視線に、息を飲んだ。
「あなたは無知ゆえに、あなたを信頼なさった王を裏切った。それを、知らなかったからで済まされると思ってか」
「マリニア…」
「王のお身体はもう限界だ。私が何よりも大切にお育てしてきたあの方が、お前のような愚か者の手で!」
 激した彼女は私にそう吐き捨てて、地下を去る。薄暗く異臭の漂う空間に独り取り残された。愚か者、その言葉が私を突き刺す。
 
 思い出すのは、母女王の顔だ。私が出立する前の晩に私を呼び、抱き締めた優しい腕。私のためにと言って、彼女愛用の衣装箱に心づくしの品々を詰めてくれた。
「愛されるよう努力せよ。それがそなたの幸せに繋がろうぞ。この茶はあちらの国王殿と共に飲むが良い」
 そう言って微笑む裏で、当時の母はもう既に謀略を巡らせていた。それまで彼女が私に情愛を見せた場面など数えるほどもなかったのに、どうして疑ってみなかったのだろう。確かに、私は愚か者だ。
 だが何故母はこんな事を企んだのか。発覚した場合には、私の身が危険に晒され、二国間の争いも避けられない。いくら甘ったれた私でも今更母心など期待しないが、少なくとも戦争は彼女にとって得策でなかった。一度は敗れた国を相手取り、しかも暗殺は国家の不名誉で他国の援軍は望めまい。
 私の持参金と言う名目で奪われた領土を、彼女はそこまでして取り戻したいのか。あくまでも推察だったが、そこへ描き出される母の貪欲さに私の背筋は震えた。
 
 人気のない地下牢に独り、マリニアはあれきり顔を見せない。水も食事もなく、夫の安否を知る術もない不安を、ただひたすらに考える事で紛らわした。夫の意識が戻れば、必ず私を救い出してくれるはずだと信じて。






   十一.優しい嘘

 そんな私を牢から救い出したしたのは夫ではなく、ましてやクルフでもなかった。黒の細かい巻毛を真赤なターバンで押さえた男は、実に気取った仕草で私を出迎える。
「これはこれは。噂に聞くタレンハナの女性は、さすがにお美しい。それとも姫君が格別なのか。これから末永く御付き合いしていく身には、大変な僥倖ですな」
「わたしはあなたを知りませんが」
「おお、これは失礼。自己紹介が遅れておりました。私はこの国の正統なる王パーズ。カルダナ公と呼ばれていた事もありますが、姫君にはそちらの方がお馴染みですかな」
「あなたは何を言っているのです? 国王とはわたしの夫です」
 巻毛の男がにんまりと笑む。その笑顔に、とてつもなく嫌な予感がした。
 今朝方いきなり地下から出された時から、何かがおかしかった。城内がやけに荒れていて、割れた陶器の欠片や傷のついた家具が散見する。不審に思って女官に尋ねたが答えてくれず、丸一日振りの食事も夫が心配で喉を通らなかった。
 夫はどうしているか聞いても返事がないのは同様で、出来れば脱走してでも彼に会いに行きたいのに、監視の目が厳しくて隙を見つけられない。ようやく夫の執務室へ連れて来られて安心したら、そこに居座っていたのがこの珍妙な小男だった。
 カルダナ公という名前は覚えている。私とエージカの命を狙って、暗殺者を差し向けてきた人物だ。まだ生きていたのか。
「御安心ください。あなたを国から奪った大罪人なら間もなく処刑されますよ。まあ、あの状態では刑を待つまでもないかもしれませんがね。あなたは我が同盟国タレンハナの姫君として、何一つ不自由のない身です」
「処刑とは何事です。わたしの夫と子は、一体どこなのか教えなさい!」
「おやおや。王位を僭称していた輩などを御夫君と呼ばれますか。高貴な姫君の行いとはとても思われませんなあ」
 私の母は、二度目の戦争を起こすつもりなどなかった。もっと効率よく奪われた物を全て取り返す方法を選んだのだ。
 カルダナ公パーズは前王の弟で、王位に野心を抱いていた。当然の事ながら夫とは敵対関係にあり、母が同盟を持ち掛けるには格好の相手だ。茶に混入した薬で夫が死の床につくと同時に、カルダナ公が立つ。王位を得る代わりに、彼は我が国の領土を私と共に返還するという密約が、終戦の騒ぎに隠れて交わされていた。
 夫は私を捨て駒にする事を思い切れなかった。だが母にとって、私という娘は最初から最後までただの駒に過ぎなかったのだ。
 私の存在も、恋も、何もかも。全て。

 カルダナ公のクーデターによって、夫は粗末な一室に押し込まれていた。私の牢にあったものよりは幾らか良いが固い寝台に、彼が荒い息で横たわる。医者らしき男が唯一人だけ側に控えていた。
「王……」
「もはや王位は失った」
 目を瞑ったまま、彼は呼び掛けをにべもなく撥ねつける。いつも強い印象だった彼の声から力が失われていた。
「もうすぐこの身をも失うな。今更、密通者が何の用だ。敗れた姿を笑いに来たか」
「違います! わたしは」
 私は何がしたくて彼に会いに来たのだろう。ただ会いたくて、その一心でカルダナ公に頼み込んだ。だが改めて彼に問われ、答えに詰まる。
 彼に泣いて許しを請ってとして、それで何になるだろう。
「手なずける心積もりだったが、お前の方が一枚上手だったようだな。下らん負け方だ」
「わたしが、何か王のためにして差し上げられる事がないかと思って」
「ならば失せるがいい。お前の顔を見ると不愉快だ。最期くらい心安らかに過ごさせろ」
「手を尽くしてみなければ、最期などと分からないではありませんか!」
 マリニアは絶望的のような事を言っていたが、探せば治療法を知る医者もいるかもしれなかった。この国になくとも、他国まで手を広げれば分からない。彼のためなら、大陸中を探してみせる。それで駄目なら、世界中をだって巡ろう。
「心臓を取り替えない限り無理だ。いつかは覚悟をしていた事だが、こうも早く限界が来るとはな。お前に同情などしたのが命取りだった」
 もう私には何もない。祖国に戻ったところで、今回の件を理由に廃嫡されるのが落ちだ。今の私が頼る相手はもう夫しかいなかった。彼への想いだけが、私を奮い立たせる。
 だが、そんな最後の甘えは許されなかった。掠れた声がはっきりと私を切り捨てる。
「万が一つに病が治癒したとして、首を切られるだけだ。余の一生を賭けて成した事全てが無駄になった。お前のおかげでな。これほど人を憎めるとは思わなかったぞ」
「取り戻すお手伝いをします」
「お前などに何が出来る。何の取得もない事に同情してやれば、人を裏切るような女だ。本当に、今更何をしに来た。少しでもまともな心があるなら、去って余に二度と関わるな。お前の顔を見ると、虫唾が走る」
 何と言われても反論できる立場ではなかったが、苦しげな彼の吐き捨てる言葉一つ一つが私を切り裂く。
 愛されていたのではなく、同情。そして、その同情すら私は自分の浅はかさによって失った。もっと賢ければ、もっと強ければ、何か違う結果を得られただろうか。
 もっと私が、強ければ。
「意外に冷静で、つまらないわ。泣いて取りすがってみせれば、甘い男だからほだされるかと思ったのに」
 酷薄な台詞は、思ったよりずっと滑らかに舌へ乗った。まるで本心みたいに響く。
 私の変化に、夫は軽く瞬きを示した。
「言っておくけれど、わたしの機嫌を取っておく方が身のためよ? あなたの子、このままだと殺されるわ。分かっているでしょ」
 上手く笑顔で言えているだろうか。彼の言葉など、ちっとも堪えていないという仮面。
「わたしなら、エージカを助けられる。この国の王位に即ける事だって、出来るかもしれない。さあ、わたしに愛を誓いなさい。あの子が大事なら」
 偽りの私には、偽りの愛。それでも夫が誓う物なら、私にとって価値がある。その愛に賭けて、彼が望んだ未来を私が叶えよう。
 今の私でなく、彼が信じるに足る強い私が。






   終.女王
 
 両開きの扉が、重たい音を立てて開かれる。白亜の空間に真白の人々が居並ぶ光景は、実に壮観だった。私の右後ろで息を飲む音が聞こえる。彼は二度目だというのに圧倒されているらしい。
 白い人間達の頂点にある女性が、私の姿を認めて立ち上がった。白銀の王冠に嵌まった石の輝きが、彼女を殊更神秘的に見せる。
「大姫、そなたの帰りを待ち侘びておった」
「お母様、ご無沙汰しております。此度の策、まことに見事でありました」
「そなたには大層な苦労を掛けたが、無事で何よりであった」
「ええ、幸運にございました。カルダナ公へわたしの保護を求めてくださったご配慮に、心より感謝しております」
 かつてはこの母と言葉を交わすたびに、身体が固くなって仕方なかった。気に入られようと必死だったのだ。そんな思い出の自分が可愛らしくて、口元が綻ぶ。
「どうしたのじゃ」
「この場所に帰ってこられた事が嬉しくて」
 会話に感じる緊張は今もあるが、一年前のそれとは趣が異なった。母の思惑を読み取り、こちらの真意は悟られてならない。
「ところで、その赤子がそうかの」
「ええ、お母様の孫ですわ。エージカと申します」
「おうおう、愛らしいの」
 私の腕に抱かれた子供の頬に、壇上から降りた母が手を伸ばした。
「パーズ王はこの子を処刑するだなんて仰いましたのよ。このわたしの、子供を」
「まあ当然の判断だが、あれは我が国に借りがあるからの。強くは出れなんだであろう」
「もちろん弁えていただきましたわ。この子は、タレンハナに更なる繁栄をもたらす大切な宝。かの国は将来、国王を育てたわたし達に大変な感謝を捧げる事になりますわね」
「その通りじゃ」
 母は実に満足そうだ。エージカを抱き上げて再び玉座に戻ると、優しい笑みを浮かべた。慈愛の微笑を向ける先は、孫の持つ他国の王位継承権であるに違いない。
 そう遠くない未来にカルダナ公は王位を追われるだろう。そして幼い少年王を援助するためにタレンハナが乗り出す。母は今からもう、その日が待ち遠しくてならないのだ。
 この人は、自分がいつまで女王でいられると思っているのか。出来れば絶頂にある時に、そこから蹴落としてやりたかった。私が幸せを奪われた瞬間と同じく、復讐は果たされる。それまでは機を読み、力を蓄えておこう。
「御紹介しておきますわ。あちらの国から、剣士を一人連れ帰りましたの。とても腕が立ちまして」
「おや、以前の使者殿ではないかの」
「はい。改めまして、クルフと申します」
 この場で一人異質な黒い肌を晒して、私の従者が床に膝をついた。これは、私の剣。

 カルダナ公に捕われていたクルフとその母マリニアを救ったのは、私の気紛れだ。罪滅ぼしだなどと言うつもりはない。過去の失敗を悔やむより、私は先に進む事を選んだ。
 二人は夫の最期を看取り、マリニアはそのまま城を去った。
「母は、王の墓を守るそうです」
「そう」
 夫の遺体はカルダナ公の命令で、王家の墓地ではなく市井に埋められた。それでも庶子の分際で王位を騙った大罪人には寛大な処置だと彼は主張していたが、実際は夫の遺体を辱めて民の反感を買う事を怖れたのだろう。
「私は、アナイス様にお伴させて下さい」
「心配しなくても、エージカは私が守るわ」
「いいえ。私はあなたをお守りするよう王に言い遣っています」
「おかしなことを言うのね。あの方はわたしを憎んでいらしたのに」
 クルフが首を振る。
「王はあなたを大切に思し召しでしたよ」
「毒を盛ったような女を? あなたもわたしを恨みに思ってるでしょうに」
「もう終わってしまったことです。それに、王があなたを遠ざけられたのは、あなたを守るためでしょう。罪人の下へ通えば、ただでさえ弱いお立場が更に危うくなる」
「憶測で、適当なことを言うのはやめて」
 私の甘えを呼ぶようなクルフの言葉へ素直には頷けず、強い口調で否定した。夫が逝ってしまった今になっては、もう真実を確かめる術などない。そしてその気持ちがどこにあったにしろ、彼が最後に望んだのはエージカを助ける事だった。
 嘘も、本当も、それだけではただの情報に過ぎない。どちらを信じるか選ぶのは、常に人の心だ。

 クルフが「王の剣」と呼ばれる所以は、彼が夫の剣そのもの、つまり暗殺者だったからだと言う。
「クルフは、私の剣となって働くと忠誠を誓ってくれました」
「そなたも一度嫁して、すっかり美しくなったからの。そのように心を捧げる男が出て来ても不思議はあるまい」
 私とクルフの関係を誤解しているのか、それとも分かった上での発言なのか、母の表情からは読み取れない。これからクルフは剣として、私とエージカの障害になる者を排除するのに役立つだろう。
 だがもちろん血を見ずに済むのなら、その方が良かった。
「そうそう、もう一つ良いお話があるのでした。まだ非公式なのですけれど、あちらのパーズ王が是非我が国から妃を迎えたいと仰っています」
「それはめでたいの。して、どの姫を」
「末姫は幼いですし、中姫がよろしいかと」
「そうじゃの」
 美しいだけの末の妹と違い、上の妹は賢さは脅威だ。だがいくら反り合わぬ仲だからといって、肉親を手に掛けるのは忍びない。
「姉様ったら、いきなり何を仰るの!」
「良いお話でしょ」
「それなら、姉様が嫁がれればいいのよ。二度目ならお手のものじゃない。私は嫌よ」
 今更彼女と口論するつもりはなかった。
「馬鹿な子ね。世継のわたしは、もうこの国を離れられないでしょ。エージカを育てなくてはならないし。そうですわよね、お母様」
「確かにのう」
 一年前とは違う。今の私には切り札があり、それを使う機を心得ていた。貪欲な母がエージカを手放すわけがなく、それを察して黙り込んだ妹はやはり聡かった。その茶色の瞳を強く射掛けられて、私は微笑む。
 一年前とは、違うのだ。
 感謝であろうと軽蔑であろうと、人の評価などもはや私の心に響かない。
「そなたは本当に良い世継に育ったのう」
 かつてあれほどに望んだ母女王の賛辞が、私の心を上滑っていく。気に掛かるのは、その言葉の裏だ。これ以上出過ぎるなという警告かもしれなかった。いずれ打ち倒す時節のため、彼女に私が危険な存在だと悟らせてはならない。
 私は彼女を退けて、この国の女王になる。それは希望でなく、近い将来への確信だった。いずれ叶えなければならない願いのため、手に入れる玉座はきっと役立つに違いない。









テーマ:自作小説(ファンタジー) - ジャンル:小説・文学


【2006/12/14】 | |

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