小咄未満。全てフィクションです
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人魚姫(2)



 一面が霧に覆われていた。十歩も離れれば、他人の姿は帳の向こうへ消える。
 暖かい海流に恵まれたこの一帯は、寒さと無縁とまではいかないまでも、冬に凍えることはなかった。代わりに濃い霧がしばしば海上を、そして人の住む土地を柔らかい澱に包んで隠す。
 だから、彼女は冬が好きだった。
「姫さま、どちらへ?」
 乳母が悲鳴のような声で彼女を呼ばう。
「ここです。心配しなくていいのよ」
「じっとしていらしてくださいましよ、危のうございますから。まあ、このような岩場で――。ですから今日は止しましょうと申し上げましたでしょう」
「分かっています」
 彼女は落ち着いた声で応え、それから声を潜めて小さく笑う。心配症の老女にどこまでも付き纏われるのに、少しだけ疲れていた。霧はいい目隠しになる。
 城で、彼女は人の望むように振舞う。それが義務だからだ。成長するにつれ彼女のしがらみは増え、今ではしてはならないことばかりだ。
 走ってはならない。大声で笑ってはならないし、話すのもいけない。殿方とあからさまに視線を合わせるなどとんでもない。物音を立てることすら好ましくない。
 乳母や教師の口から次々と発せられる制止が何のためのものか、それを弁えられるだけの知恵くらい彼女は持ち合わせている。女の価値は美しさか、もしくはいかに人に美しいと感じさせられるかにあるのだ。少なくとも彼女の両親や乳母はそう考えていて、そんなことが知恵の回りより大事らしい。
 美しいだけの木偶の棒になど何の魅力があるのか知らないが、理解できないからといって彼らの言葉へ無下に逆らうほど、彼女は愚かでもなかった。それが王の娘に生まれた務めなら、受け入れなくてはならない。
 姉達が嫁いでいった折の華やかな宴。いずれ彼女も姉達に劣らぬだけの支度と共に、花嫁衣裳を身に纏うのだろう。
「姫さま、そちらにいらっしゃいますわね。どうぞじっとしていてくださいましよ」
「分かっています。考えごとをしているの。静かにしていてちょうだい」
「けれど、姫さま」
「分かっていると、言っています」
 煩い乳母に強い口調で命じると、好い加減に己の執拗さを自覚してくれたのか、ようやく声が消える。それを待って、彼女はそろりと足音を隠して歩き出した。霧が出ていようと、歩き慣れた岩場に不安など感じない。幼い頃から、こうやって冬の日に潮の香を嗅ぎにくるのが彼女の習慣だった。
 城で、彼女は人の望むように振舞う。けれど城の外で、しかも人の目を隠す霧の中でくらい、好きに動き回っても構うまい。ただでさえ木偶の棒を演じて肩が凝るのに、そんな小さな自由まで奪われては堪らなかった。
 義務だと分かっていても、こんな生活を馬鹿らしいと感じることは抑えられない。こうまでして彼女が得られる物は何なのだろう。そんなものを望んだ記憶は、おそらく一度としてないのに。
 力強い父の腕に守られて、美しく微笑む母。勇猛さを近隣に轟かせた逞しい義兄に、頬を染めて寄り添う姉。そんな姿を絶えなく見せられ、それが幸せだと言い聞かされ、いつか彼女もそうなるのだと教えられた。
 結局それに釣られることはできなかったけれど、巧みな誘導だ。
 彼女の意志や恋など、その人生に介在してはならないのだ。彼女はいつか、母や姉達と同じく、それが幸せだと愚かにも信じ込んだ振りをして、身分の釣り合う好きでもない男のものにならなくてはいけない。
 せめて、まだ見ぬその男の体臭がきつくなければいい、と彼女は出来る限り皮肉に考える。目を閉じれば顔は忘れられる。耳を塞げば声を聞かずに済むし、いくら知性がなくても耐えられるかもしれない。だが、臭いは無意識に忍び入ってくるものだ。彼女が好む、この霧に混じった潮の香と同じように。
 義務というなら、人目には完璧な淑女を演じてもみせよう。けれど心に、ほんの少しの自由くらい許してやりたかった。
 こうやって霧に紛れたひそやかな散歩と、憧れだけに終わる恋くらい。
 胸を押さえて彼女は大きく霧を吸い込み、その拍子に何かが視界の隅で動いたように思って、一旦呼吸を止めた。近くの尖った岩に打ち寄せた波が、飛沫の花を咲かせて散る。その影に何か――もしくは誰か、いる。白い靄が遮ろうと煩い視界に彼女は目を凝らした。
 もどかしくそちらへ一歩踏み出すと、やはり先ほどの感覚は気のせいではなく、確かに動く影がある。
「そこにいるのは、誰ですか?」
 返事はなく、彼女は更に歩を進めた。怖れを感じなかったのは、その影が目線より随分と低いところにあったからだ。頭に思い浮かんだのは溺れて流れ着いた遭難者か、岩場で迷う子供ではないかとの危惧だった。
 そして目にしたのは、長い髪。波打つ金。目蓋のない青い眼。
 岩場に座り込んだ小さな影は半ば人の形をした人でないもので、彼女は怪物に行き逢った恐怖よりも、その美しい佇まいに足を竦ませた。透明に厚い唇からは綺麗に並んだ小さな牙が覗く。
 セイレンという生き物の名を、彼女は父王から聞いたことがあった。半身は人、半身は魚、妙なる歌声で船乗りを惑わす美しい怪物がいるという。海の迷信だと父は笑い、彼女もまたその存在を信じなかったが、たった今まさにその伝説を目にしていた。
 瞬くことを知らぬ青が、彼女をじいと見据える。視線を交叉させたまま、彼女は身動きすることもできず、ただその眼が酷く悲しそうだと思った。濡れたように光っているからか、それともその腕に抱く人間のせいか。
 セイレンは人間を抱いていた。逞しい体躯の男で、小さな怪物では両手を広げてもその身体の半ばまでにしか届いていなかったが、宝物を守るように愛しげな仕草だ。
 そこでようやく彼女はセイレンの腕に眠る人間に目を向けて、その顔を認め、小さく叫び声を上げた。
「殿下――っ」
 見知った青年だった。脳裏から消そうとして叶わなかった端正で男らしい面立ち。彼女の記憶にあるよりもずっと大人びていたが、恋に病んだ眼がその相手を見誤ることなどあろうはずもない。
 その呼び掛けにも閉ざされたままの目蓋に、青褪めた肌に、動かない唇に、一時、彼女は淑女らしく振舞うことなど忘れ果てた。







【2007/01/10】 | もう一つの童話 |

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