小咄未満。全てフィクションです
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牝牛の絹毛



 時は静かに過ぎる葬列のようだ。いずれ万物を葬りゆく。死者は無論のこと、未だ生命のある者も忘却の彼方に追いやられれば死人といかほど変わろうか。
 港町にさんざめく波の音も騒がしい晩、それよりもっとうるさい酔客に囲まれてエッダは洗い上げたばかりのグラスを磨いていた。『牝牛の絹毛』亭の給仕たちはよく仕込まれていて、この女主がそれほど目を光らせなくとも滞りなく客の世話をする。
 だからエッダの仕事はもっぱら、お気に入りの皿磨きに限られた。定位置のカウンターの隅で乾布が快い音を立てて酒杯の曇りを拭い去る過程を楽しみながら、彼女はいつも静かに客を観察している。時折いさかいごとの時にだけ彼女の特徴である柔和な物腰で仲裁へ出るものの、あとはひっそりと目立たなかった。
 そういうわけで、常に俯いた彼女の額が処女雪の白さであることも、その上品なまろみを帯びた頬に熟れ始めの果実の初々しい赤みが差していることも、店の常連客でさえ気付かない者が多い。とは言え『牝牛の絹毛』亭がこの町に開いてからの長い期間、偶々その非常な美しさに目を留めた人もいないではなかったが、カウンターの端を指定席に足繁く店に通って口説いてもエッダは決して微笑まず、それどころか話に顔を上げることすら少なく、海面の月よりも近くて遠いそのつれなさに男たちも次第と諦めるざるを得なかった。
 酒場の女将などを高嶺の花と称するのは相応しくなく、だから知る人の口には絵に描いた花のような女だと語られる。惹かれて手を伸ばしても返る感触はない。
 そんな彼女も近頃は腰まで伸びた長い金髪に銀毛が混じり始めた。いくら目立たずに生きようとも年月までは彼女を忘れない。微塵の粉がゆっくり層と積もるように老いはその上に影を兆し、ひそやかに人々が噂の口に上らせていたカウンター隅の席――ちょうど皿を拭くエッダの前に位置する場所に腰掛ける者の姿もとんと見られなくなってきていた。
 もちろんそのことで女主人の様子に変化はなく、羽扇子の骨を思わせる華奢な指は何時も変わらずに拭い布をつまんでグラスの表面を往復する。真直ぐの髪が俯けた顔の頬を流れ、肩を越え、背に落ちる。時間は確かに彼女の容姿を少しずつ作り変えつつあったが、彼女の心に何らかの波紋を落とすことは叶わないようだった。
 その客は中肉中背の中年男で風貌に取り立てたところもなく、常なら決して衆目を集めるような類の人物ではない。そんな男が入り口の戸をくぐってきた途端に店中が注目した理由は当然なことにその外見でなく言動によった。
「エッダ、やっぱりお前生きてたのか!」
 女将の名をエッダと知らない客も多い。だがその声の大きさは海の荒くれ男たちが気ままに騒ぐこの酒場のうちに響き渡ったことからも知れ、事情の理解如何はともかくとして皆が何事かと振り返った。
 そうしてふいに静まり返った店内に、遅れて倒れた椅子が床にぶつかる音が響く。
「コルマク……」
 男の名を紡いだかぼそい悲鳴は、黙することしか知らぬげに思われた女将の口から漏れていた。青白い膚を更に青白く染めて、震える手で口元を押さえた女の顔は初めて明かりを避けるのを忘れて仰向けられ、美しい彫りを人の目に曝け出す。

 貿易商コルマクが妻と親友を一挙に失った日は今から十八年前の冬、婚礼の夜だった。初夜の床へ赴いた夫はもぬけの空の寝台をそこへ見出し、異常に呼びつけた側近がいつまで待てども顔を見せないことに、花嫁がその男にかどわかされたと彼は知る。消えた男女は同郷の幼馴染で、その伝手でコルマクは妻となる女に出会ったのだ。
 翌日の捜索で二人の行方はすぐ明らかになった。海辺に捨てられていた衣装の数々、砂の上に点々と残った二組の足跡は潮の中へと消えていた。まるで踊るような足取りで海に沈んだ恋人たち。嘆くに嘆けず、さりとて怒りをぶつける相手をも失った哀れな寝取られ男は呆然と一人取り残された。
 彼が結婚を申し込んだ娘は誰もがひととき目を奪われる鮮烈な美貌の持ち主だった。猛々しいほどの美しさ、だがその外見に似合わない控えめな恥じらいを見せる彼女の性質にコルマクは惚れた。その娘がずっと幼馴染の青年に憧れつつも相手にされていなかったと彼が知ったのは、全てが終わった後だ。数日後打ち上げられたという報告に彼は苦い思い出に満ちた浜へ再び向かい、逞しい美丈夫の面影を水に膨れた腐肉に埋もれさせた男の身体に唾を吐き掛けた。もちろんそんな彼に文句を言う者などいない。誇りを傷つけられた人間の当然の権利だ。
 そして結局それと一緒に逝った彼の妻の遺体は上がらず、おそらくは潮の流れに攫われたのだろうと――。

「この町でお前に似た人を見たと言われてね」
 十八年もの昔、ただ一つの昼の間だけ彼の妻であった女を前にコルマクは言った。女の外見は彼が知るものとそれほど変わっていない。豊かだった髪の量が減り、頬がこけた印象はあるものの、それくらいは年相応の変化だった。むしろ三十代も後半に差しかかっているようにはとても見えない。もっと詳細に見れば皺などもあるだろうが――少量の悪意をもってコルマクはそう考えるが、所詮は盛り場のぼんやりした明かりの下に分からぬ程度のものだ。
 エッダは相変わらず美しかった。
「お前は変わりやしない」
 最初に彼の名を呼ばった以外は口を開こうととしない女を前に、彼は話し続けた。一度は驚きに歪んだ顔からふたたび表情が削げ落ち、カウンターの向こう、彼の前で細い手がグラスを磨く。
 周囲はざわついていたが酒場らしい賑わいはなく、この珍客の言動に耳をこらしている者が多かった。当たり前だろう。他人の騒動ほど見物して面白いものはない。ましてやエッダはこの港町でも有数に人気の飲み屋を経営する女でありながら、その氏素性を知る者がない謎の人だ。何も知らぬ新参者も隣近所の酔っ払いに耳打ちされ、視線を男女に向ける始末だった。その囁きが波となって室内を満たす。
「黙りこくってないで、何か言ったらどうだい。十八年振りなんだよ、つもる話もあろうじゃないか。それに俺はとっくり聞かせてもらいたいんだ。二人の男の人生を台無しにしたお前が、こうやってのうのうと恥知らずにも生き抜いてる理由をねえ」
 いっこうに喋ろうとしない女に向けてたっぷりの嫌味が込められた言葉だった。かつてコルマクが唾棄した水死体はその昔、学生時代を共に寝起きした親友のものだ。卒業して彼が親の事業を継いだ時にも助けになろうと誓ってくれた男で、もし生前に幼馴染の娘との仲を告白していたならば彼も怒りはしても最終的に悪いようにはしなかっただろう。
 二人を一挙に失った時、最初にコルマクの心を占めたのはその男への憤懣だったが、次第に時を経るうちに腹立たしい対象は妻を奪った間男から親友を堕落させた女へと移り変わった。仕事や人生の局面で思い返されるのは妻よりも友の面影で、事件以来すっかり人間不信に陥った彼には常に孤独が付きまとう。あの女が彼の前に現れなかったなら、こんな現在はなかっただろうに。
「――わたしが生きているですって」
 女がふいに顔を上げて、ほほと笑った。
「わたしがどれほど生きていると言うの」
 女は再びほほと笑い、その茶色い眼の奥に奇妙な光を見てコルマクは軽く身を引いた。それは狂気の輝きに似て、彼にエッダの側にも十八年の長い年月があったことを知らしめる。彼はその時間について何も知識を持たない。
「生きているようにしか、見えないがね」
「この町の人は誰もわたしを知らないのよ。あの町の人は皆、わたしを忘れてる。戸籍だって、あなたがもう消したでしょう? あなたは今日までわたしを死んだものにしていて、明日からもまたそうする。ほうら、わたしは生きてるってまだ言えるかしら」
「何が言いたいか理解できないね」
「死ねなかったから死んではいないけれど、生きてもいないということよ。そうやって暮らしてきたから」
「勝手な理屈だな。お前のおかげで人がどれほど迷惑を被ったと思ってるんだい」
 狂ってはいないようだ、とコルマクは思った。こんな馬鹿げた話をできるくらいにはまともな頭をしている。それもそうだ。女手でこんな酒場をやってるくらいだから、それなりのことをしてきてるはずだ。ネジが抜けていてはそうはいくまい。
 この女は随分変わった、とコルマクは思った。昔は人形のように可愛らしい娘だったというのに、今のこのふてぶてしさといったらどうなんだ。
「生きてないというなら、最初からそうすりゃ良かったんだよ。いっそ生まれてこなければね。それなら俺も、お前が殺したあいつも今頃うまくやってたさ」
「わたしはいつだって変わってないわ。わたしにあるのは彼が好きだということだけで、あとは回りが望むようにやってきたはずよ。だからあなたと結婚もした」
「ふざけるなよ」
「ふざけていないわ。わたしには好きな人がいたけれど、彼はわたしを好きではなかった。あなたはわたしを好きと言って、わたしはあなたが嫌いではなかった。あなたの側には彼がいる。だから、あなたを選んだ」
 コルマクの脳裏に浮かんだのは、見栄えの悪い学生だった日々だ。親友は長身の色男で、横に並ぶと常に劣等感を刺激されていた。見た目など男の価値にはさほど影響がないと自らを慰め、親友もまた言外にそうやって彼を慰めた。そういう気遣いにはありがたさよりも情けなさが先に立つ。
 だからその同郷の友人だという美しい娘が親友でなく自分を選んでくれた時、どれほど誇らしかっただろう。外見ではない価値が自分にあるのだと実感できた。ともすれば、それは恋心よりも強い思いだったかもしれない。親友の目にうらやむような光を見つけ、それがまた彼の喜びに拍車をかけた。
「そんならなぜ、奴はお前と逃げたんだ」
「あの人はあなたが羨ましかったのよ。あなたはあの人が望む物を何でも持っていた。金持ちで頭が良くて、仕事もできたんでしょう。彼は郷里へ帰ってくるたびにあなたの話ばかりしたわ。わたしはそれを聞いてあなたに好意を持った。好きな人が好きなものを愛しむのは自然なことよね。そして引き合わされたあなたは、わたしに恋をしたと言った」
「どういうことだ」
「あの人は、多分わたしを利用したんでしょう。最初からそのつもりだったのかは知らないけれど、あなたの持ち物の中でわたしは彼にとって一番簡単に手に入れられる存在だったから。結婚式の夜にあの人は一緒に逃げようと言ったわ。ずっとわたしが好きだったと。嘘だと分かっていても、わたしは嬉しかった」
「嘘じゃないだろう。酔狂で心中などしない」
「逃げるなら、もっと前でも良かった。わたしはいつだってあの人に従ったわ。それなのにあの日を選んだのは、わたしがあなたのものになる日だったからよ」
「まさか」
 そんな馬鹿なと口にしながら、その考えがあながち間違ってないかもしれないとコルマクは理解する。彼が親友を羨んだように、相手もまたそうだっただけの話だ。
「それに、あなたもわたしを優越感の道具にしていたでしょう。お人形のようなふりをしていても、あの頃のわたしにだってそれくらい分かったわ」
 エッダはそう言って、たった今まで磨いていたグラスに酒瓶から濃い液体を注ぎ、それをコルマクの方へ押して寄越した。いつの間にか彼の手元にあった杯は空になっていて、喉はそれでもからからと渇いたままだ。
 彼が知っていたエッダは大人しいだけの娘だった。彼女がその美しい無表情の下で何を見ていたのか、それが謎だと恋する若者は溜め息をついて親友に零したが、本当のところは考えてみてもいなかった。彼女の硝子玉のような眼は決して硝子などではなく、透徹した観察者の知恵を備えていたのに。
「ねえコルマク、それを飲んだら帰ってくれるかしら。そしてわたしを忘れて」
 エッダの口調は酷く穏やかになった。また小さな手が新しいグラスを拾い、磨き布が規則正しい音を立て始める。
「わたしはここで死んでいくの。この場所に座って、誰の言葉も聞かず、誰の目にも止まらず忘れられて、生きたまま静かに朽ちていくの。ここでのわたしは名前もなく、ただ杯を磨く女なのよ」
「なぜそんな――」
「なぜってそれは、わたしがあの人を殺したからよ。あなたが最初に言った通り。だからこれは罰なの。こんな形で生きることが」
「殺した? そうだ。心中だったはずが、なぜお前は生きてる」
「一緒に死ぬはずだったのよ。彼に死のうと言ったのはわたしだわ。あなたのところを飛び出して、彼はすぐに後悔を始めたの。彼はあなたのことを羨んでいたけれど、同時にとても好きだったから。その耳に罪悪感からの逃げ道を囁いてあげた。どうせそのまま二人で逃げるつもりなんて、わたしにはなかったし」
「お前はあいつが好きだったんじゃないのか」
「今も好きよ。あの人以外のものなんてどうでもいい。だから逃げるつもりなんてなかった。あの人は、あなたの持ち物じゃなくなったわたしになんてすぐ興味を失うことが分かりきってた。彼はあなたのものが欲しかっただけだもの。でもあそこで一緒に死ねば、彼はわたしのもののまま」
 愛情のかたちは淡々と語られる。そのいびつさにコルマクは顔を顰めたものの、指摘するには至らなかった。歪んでいた自分を彼も先ほど思い出した。
 彼は確かにこの女を愛したが、純粋にそれだけではなかったはずだ。
「でも駄目ね。慣れない悪巧みって上手くいかないものよ。気が付いたらわたしは生きて浜に打ち上げられて、その間に彼は海の底へ一人で逝ってしまった」
 磨き上げた酒杯にふたたびエッダが酒を注ぎ、今度は自分の口へそれを傾けた。音を全く立てずに青白い喉が数度波打つ。瞬く間にグラスは空になり、彼女は酒の後の長い息をついた。それはまるで嘆息のように倦んだ空気を含み、彼の知らない十八年分の淀みがそこに覗く。
「もう行くよ」とコルマクは言った。
 彼の杯ももう空で、これ以上その場所にいるのはいたたまれなかった。今日エッダを見つけたら叩きつけるつもりでいた恨みは、とうに行き場を失くしている。
 罰を受けたのだとエッダは言った。ならばコルマクに起こった出来事も、全て何らかの報いだったかもしれない。そうまで思う。これは丸め込まれたと言うのだろうか。もうそれほど腹は立たなかったが、戯れに尋ねた。
「俺は、お前とあいつを失った。これは何の罰だい」
「そんなこと、あなたしか知らないわ。あなたの罪悪感に聞いてみなさいよ。それで分からないなら、忘れてしまったらいい。もう十八年も前のことだもの」
「お前は忘れないのかい」
「忘れないわよ。ここでこうやって死んでいくことは罰だけれど、わたしが彼のいない世界で生きていく術でもあるから。それもまた罰かしら。でもあの時ああしたことを後悔はしない」
「そうか」
 それきりまたエッダは顔を伏せて黙りこんだ。コルマクがもう一度いとまを告げても返事はなく、戸口で振り返った時にも彼女は顔すら上げていない。
 コルマクは苦笑して『牝牛の絹毛』亭を後にし、それきりエッダを忘れた。彼は罰を被るほどの罪を負っていない。
 港町に、波の音が騒がしい晩だった。
 女主にまつわる事情で、聞き耳にひとしきり静かになっていた酒場にも熱気が返り、店内からは海の気配が遠のく。エッダは相変わらずカウンターの隅でグラスを磨いていた。件の一幕で彼女の容貌に気付いて心惹かれた者がまたぞろ幾名か、コルマクが座っていた席を競い合っていたが、彼らもそのうち先達と同じように諦めることになるだろう。
 時の葬列は人の記憶を押し流す。それでも消すことのできない思いを胸に、ひっそりとエッダは俯けた顔の口元を笑ませた。彼女はこの檻に望んで捕われている。受刑者の喜悦は今夜もただひたすらに、浜へ打ちつける波の底へと向かうのだ。
 そうらみろ、刑務所の中にもランプが一つ点いたぞ。



【2007/01/22】 | MysteryCircle |

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