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4. 傷の舐めあい





4. 傷の舐めあい


 色町は花を育てるには水が良くないからねえ。
 りんの旦那は丸眼鏡を押し上げながら、皮肉な口調で呟く。
 それは独り言のようでいて、りんに対する嫌味を含んでいるのだった。
「す、すいません。旦那様…」
「おやおや、あたしは別にお前の事を言ったつもりはないよ。ねえ?お前が育った場所を懐かしがるのは、無理もない事だしねえ」
 もうすぐ還暦だというのに、りんの旦那は時々鼻に掛かったような喋り方をする。
 気に入らない事があると特にそれは酷くなり、耳につく粘っこさがりんの背筋をぞぞと逆撫でた。
 神経質そうな面は裕福な暮らしに反して細長く、まだ黒々と豊かな毛髪は旦那をとてもその年には見せない。渋みがかった良い男振りだと、りんのいた置屋では彼の座敷きに呼ばれる度に女達が騒いでいた。
 もっとも、その頃から旦那が床に呼ぶのはりんだけだったのだが。
 大店の旦那で金払いが良く、しかも見た目だって悪くない。そんな男が、まだ水揚げ間も無い娘にぞっこんだと言うので、年上の姐さん達にりんは随分意地悪をされた。
 りんにだって、姐さん達の言い分は理解できた。禿だった頃は、客に手酷く扱われた女達の後始末や、場合によっては看病をしていたし、りんの旦那は決してそういう風にりんを扱う事はなかったから。

 あんたは恵まれ過ぎなのよ。なにさ、水揚げったってあの旦那なんだろ。他の客は絶対とらせるなって、女将に手当てまで払ってるって聞いたよ。あんた、一人としか寝た事ないんじゃないの。そんなじゃ、芸なんて身につくもんか。

 水場で足を引っ掛けられて、壁にぶつけた頭を押さえて呻くりんに、おゆう姐さんはそんな言葉を投げていった。禿の間は、随分と優しくしてくれていた人だ。
 他の姐さんも皆似たり寄ったりで、水揚げされてからの思い出は悲しい物ばかりだった。
 りんの芸妓として優れていたなら、まだ救われていたことだろう。だが生憎、彼女の芸はお世辞にも上手とは言い難く、それがまた姐さん達の嘲笑を買っていた。
 歌えば詰る、三味線の弦は弾くでは、目も当てられない。
 元々拙いからと水揚げはまだ先の予定だったのだ。それを、旦那が無理を言って早めさせた。支度にあ随分な大金を叩いてくれたらしいが、それに感謝するよりも、あの頃のりんはただ恐ろしくて仕方なかった。
 水揚げが済めば、座敷の後に床に呼ばれるようになる。禿のりんを膝に呼んで、さわさわと触ってきたあの気持の悪い手に抱かれなければならない。支度金を出したくらいだから、置屋の女将との間にもう話はついているのだろう。考えれば考える程、ぞわぞわと恐ろしい蟲が身体を這い上がってくるような不安に震えずにいられなかった。
 今となってはもうその恐怖も遠い思い出になりつつあったが、結局りんの本質は当時と変わっていない。
 神経質に眼鏡を直してばかりいる旦那の、白く筋張った手が今夜も身体を這い回るのかと思うと、ぞうと心が冷えるのだ。粘っこい舌も、いつも無遠慮に押し入ってくる下のものも、慣れはしたが好きにはなれない。
 だが旦那にとっては、それが良いのだろう。旦那は熟れた女が嫌いで、りんのいつまで経っても未通娘な風情を気に入っているのだ。この頃のりんには、ようやくそれが分ってきた。
 りんが嫌がれば嫌がる程、恥じらえば恥じらう程、旦那は喜ぶ。それが分っていて、りんは態度を変える事が出来なかった。
 どうやったって旦那を笑って受け入れる事なんて出来やしないんだ。りんは己の心をそう結論付けている。

「だけどねえ、お前を請けてやったのはああいう汚れた場所から早く出してやりたかったから、なんだよ。お前は、そこの所をちゃあんと分っているのかねえ。」
「すいません…」
 一旦始まると止まらない旦那の嫌味には、ただ素直に謝っておくしかない。
 りんは顔を伏せて、旦那の膝で落ち着かなく動く白い手に視線を向けた。旦那の手は、いつだって何かしている。止まっているのなんて見た事が無い。それはりんを触る時にも同じだった。

 すいませんじゃないよ。謝るくらいなら、するんじゃない。ああいう場所には、汚い人間が沢山いるんだからねえ。大体すいませんって言葉遣いはなんだい。申し訳ありませんとか、恐れ入りますとか、そういう物言いは習わなかったのかい。ああそれとも、あの色町で誰かに仕込まれてきたんじゃないのかい…
 
 身請けされた当初は旦那の怒りに本気で縮こまっていたものだが、今はもうそれなりに受け流す術を学んでしまった。どうせそのうち、「悪い子にはちゃんとあたしが仕込んでやらなきゃあいけないんだよ」などと言い出して身体に手を伸ばしてくるに決まっているのだ。それまで耐えればいいだけの話だった。
 ある意味でそれから忍耐の時間が始まるとも言えるのだが、とりあえず一区切りはつく。
 旦那は最初からこうで、あの水揚げの晩だって芸の未熟さを細々と叱った挙げ句に、りんを布団に引き入れたのだった。時折には機嫌のいい日もあったが、大抵は前戯のように小言をたれる。否、旦那にとっては前戯代わりではなく、そのものなのかもしれない。りんを心行くまで叱り、組みしいて自由にする。そうすることで旦那は満足を得るのだろう。
 旦那も可哀想な人なのかもしれない。旦那の手中の煙管には絶え間なく擦られるせいで、持ち手に奇妙なへこみがある。その歪んだ形を眺めながら、りんはぼんやり思った。
 旦那の手が煙管を離れ、りんに向かって伸びてくる。さわさわ、さわさわと蜘蛛のように這っていく指の感触を身体で受け、彼女は目を閉じた。

 旦那もきっと可哀想な人なのだ。あたしと一緒で…

 今朝のりんが色町に足を運んだのは、抜けたはずの置屋に金を払いに行くためだった。借金も身請け金も全て払い終わったはずなのに、何故か長家に届いた督促状。何かと思えば、故郷の家族がまた勝手にりんを担保に金を借りたらしい。
 貸す置屋も置屋だったが、そうやっていつまでも自分を食い物にする家族を見捨てられないりんも、同罪なのかもしれなかった。毎月旦那に渡される手当てには随分と余裕があったから、言われた通りの金額を支払うと、女将は嫌な笑いを浮かべて「毎度」と言った。きっとまた次があるのだろう。
 そして、呼び出されればきっと、りんは足を運んでしまうのだろう。いやだいやだと思いつつ、振り切る事が怖くて、りんは何処からも逃げ出す事が出来ない。
 家族からも、置屋からも、姐さん達からも。今日だって店の奥から出てきた古株の姐さんに、口汚い言葉を掛けられたけれど、何も言い返せなかった。
 きっと、りんはそういう女なのだ。
 だから旦那も、りんに目を付けたのだろう。叱っても叱っても、自分を見捨てない誰かが旦那には必要だった。旦那はこういう人だから、りんのような女がいなくてはやっていけない。
 その思いは諦観かもしれないが、いつも旦那に感じる嫌な臭みを受け入れるだけの力をりんに与えてくれそうだった。


テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学


【2005/12/28】 | お題 |

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